その米兵の青年は、10歳ほど年上の日本人女性に恋をした。
横浜の進駐軍に所属していた。任期が終わり、カリフォルニアの実家に戻る時が迫ったある日、その女性に言う。
「君と一緒じゃないと帰らない」。
彼女は困った。横浜で進駐軍相手のクラブを経営しながら、母、兄、兄の妻、兄の前妻との子を養っていた。兄は一時期、出版の仕事をしていたものの、作家相手に「信念を曲げてまでカネになる作品を書いて恥ずかしくないのか」とけんかばかり。やがて働かなくなった。自分が米国に渡ってしまえば、家族が暮らしていけなくなる。
だが米国に彼と一緒に行きたい気持ちはある。
戦時中は、上海でクラブのママをしながら、日本軍のスパイとして情報を集める仕事をしていた。魑魅魍魎の世界だった。戦後は進駐軍を相手にしたクラブが軌道に乗ったものの、「米軍に自分がスパイだったことがバレたらどうしよう」と緊張する日々。疲れた。
そこへ、彼が上司の将校に連れられ客としてやって来た。カリフォルニアで農業を営む家の青年で、人を疑うことを知らない。純朴。とにかく優しい。「この人と幸せになりたい」と思える人だった。
彼女の背中を「好きな人と第二の人生を」と押したのは、兄の妻だった。兄より20歳ほど年下で、元はお嬢様育ちだが「洋裁の仕事をして、これからは自分が家族を支える」と言う。
彼女はカリフォルニアに渡った。
横浜中華街にて
カリフォルニアに渡った女性は、私の祖父の妹にあたる。つまり、上の話で出てくる「兄」が私の祖父で、「兄の妻」が祖母だ。
私はこの話を祖母から聞いた。戦前から戦後にかけて、自分の身近な人たちが激動の時代をどのように生き抜いてきたのか。ジャーナリストとして仕事をするようになって興味がわき、折に触れて祖母を取材した。
祖母から話を聞く場所は大抵、横浜の中華街。紹興酒を傾けながら、祖母のボルテージが上がるのは「個人の自由と自立」の大切さを語る時だったと思う。祖母自身、家の反対を押し切って祖父と結婚した。祖父がまともに働かなくて苦労したが、「金銭的な支えがあるより、心の支えがあった方がよかった」、「私の人生は1回きりだから後悔のないよう生きてきた」と言っていた。
祖父の妹はその後、しばしば横浜の祖父母宅に遊びに帰国した。私は「アメリカのおばちゃん」と呼び、彼女は「ボーイ」と私のことを呼んでいた。横浜の米軍住宅街にある大きなスーパーマーケットに連れて行ってくれ、スターウォーズのキャラクラーが描かれているシーツと枕カバーを買ってもらったのを覚えている。
アメリカのおばちゃんは、「一緒じゃないとカリフォルニアに帰らない」と言ったあの彼と、生涯を共にした。