Tansaは、元共同通信記者の石川陽一さんが、共同通信を訴えた「報道の自由裁判」を報じ続けている。記事を読んだ人からよく聞かれることがある。
「共同通信の労働組合は何をしているんですか?」
もっともな疑問だ。
共同通信は、加盟社の長崎新聞のために社員を「生贄」にした。例えば、石川さんの著書『いじめの聖域』(文藝春秋)の発売翌日に、共同通信福岡支社長が長崎新聞を訪れて謝罪した。石川さんは長崎新聞を批判しただけ。しかも石川さんに事情を聴き取る前に、謝ってしまった。
労働組合は本来、働く人の権利を守るためにある。今回のような事態でこそ、存在意義を発揮できる。会社と闘っておかないと、明日は我が身だ。
ところが、共同通信の労組は高みの見物だ。石川さんによると、労組にも相談したが特に動かず、何の力にもなってくれなかったという。
石川さんは共同通信に絶望して退社した。それでも裁判をするのは、共同通信の記者だけではなく、日本の記者たちの報道の自由に資するためだ。
そうであれば、動くべき組織がある。新聞労連だ。新聞社や通信社など86社の労組が集まった組織で、約1万8000人が参加。報道の自由を守ることを標榜している。
トップである中央執行委員長は、共同通信労組の西村誠さん。当然、石川さんの件も知っているはずだ。
しかし、新聞労連も動かない。
逃走先は正体不明
なぜこんなことになるのか。私が行き着いた結論は、メディア会社に身を置く記者のほとんどが、そもそも報道の自由を求めていないということだ。求めているが実現しないのではない。元々、求めていないのだ。
日本の2024年度の「報道の自由度ランキング」は、NGO国境なき記者団の発表では70位だった。日本では記者の逮捕や殺害は頻繁にない。にもかかわらず低ランクなのは、報道の自由を阻害する要因が権力側にあるのではなく、記者自身の内心にあることを示している。
『自由からの逃走』という本がある。ユダヤ人の家族に生まれたエーリッヒ・フロムがドイツからアメリカに亡命し、1941年に著した。日本でも1951年に出版された(東京創元社、日高六郎訳)。
なぜナチスが台頭したのか。フロムが社会心理の面から分析したところ、自由を求めているかのように見える多くの人が、実際は自ら自由を手放し、権威・権力に隷従してしまっていた。その方が安心だし、帰属することで自分が強い力を持ったような気持ちになれるからだ。
大きな組織に所属する日本の記者は、多くがこの「自由からの逃走」に当てはまると思う。
部数や視聴率は右肩下がり。自分の頭で考えれば考えるほど不安になるので、思考を停止して会社に心身を委ねる。斜陽とはいえ、会社は公権力からも重宝されている。自分が力を得た気になれるーー。
日本のメディア会社の場合、さらに深刻なことがある。それは、自由から逃亡してきた社員たちを受け入れている格好の経営陣もまた、逃走者であることだ。「よし、ならば任せておけ」と責任を引き受けることができない。空気が支配する、正体不明の組織に寄りかかっている。だが芯がないので、寄りかかれば倒れてしまう。
共同通信の件で言えば、報道の自由より加盟社を優先させていると、いずれ社会の信頼を失い、逆に経営危機を招く。それなのに経営陣は自ら熟考せず、流されているだけではないか。
労組も、組織の空気が支配する会社内へと逃げ込んでいるに過ぎないと思う。会社組織の外に出て、同業者と連帯するという本来の労組の役割とは真逆だ。
自由であることは確かに大変だ。自分で判断して、行動して、失敗すれば責任を取らないといけない。非難を一身に受けることもある。
しかし同時に、こんなに爽快なことはない。勇気を持って一歩踏み出せば、新鮮な空気が胸に流れ込んでくる。Tansaを創刊した私の実感だ。
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