編集長コラム

被団協のノーベル賞受賞に励まされたのは(135)

2024年11月09日12時20分 渡辺周

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衆院選挙の投開票日から2日後、10月29日に「特定失踪者問題調査会」が記者会見を開いた。

調査会は2003年に結成された民間団体で、荒木和博さんが代表を務める。2002年に帰国した5人の拉致被害者の中に、曽我ひとみさんがいたことが調査会を立ち上げたきっかけだ。日本政府は曽我さんのことを全く把握しておらず、まだ明らかになっていない拉致被害者がたくさんいると考えた。

記者会見の目的は、「事態が動かない中、可能な情報はできるだけ公開する」ことだ。警察が拉致の疑いを持っているのは、800人超。だが政府が拉致被害者として認定したのは17人だけ。捜査に進展がない。拉致の疑いがある「特定失踪者」の家族は高齢化し、我が子やきょうだいに会えないまま他界する人が相次いでいる。

情報源を守る必要もある。ギリギリの線での公開だ。私が取材している何人かの失踪者についても、情報があった。

記者会見には、「特定失踪者家族有志の会」事務局長の竹下珠路さんと、幹事の生島馨子さんも登壇した。

竹下さんは、妹で三井造船の社員だった古川了子さん(当時18)が1973年に千葉県内で失踪した。美容院をキャンセルしたまま行方不明になった。預金通帳も自宅においたままだった。元北朝鮮工作員安明進氏が、「91年に平壌市内の病院にいた女性と似ている」と証言している。

生島馨子さんも妹が1972年に失踪した。東京都港区役所で、電話の交換手をしていた生島孝子さん(当時31)。その日は休みを取っていたが、出かけたきり戻ってこなかった。翌日に出勤するための衣類は揃えてあったし、衣替えのための衣類もクリーニング店に出していた。翌日夜、自宅に電話があった。しばらく無言の後、「今更仕方ないだろ」と男性の声とともに切れた。

生島馨子さんとは記者会見の後、あいさつがてら話をする機会を得た。名刺には孝子さんの写真が入っていて、馨子さんの肩書きは「姉」。

馨子さんは、日本被団協のノーベル平和賞受賞に触れて言った。

「私も言い続けなきゃ。事実を記録しなきゃ。このまま死んじゃうわけにはいかない」

事実を発掘し、記録するのはまさに私の仕事だ。馨子さんの名刺を見ながら、「どれにご連絡するのがいいですか」と尋ねた。名刺には、自宅住所、自宅電話番号、携帯番号、パソコンのメールアドレス、携帯のメールアドレスが記載されている。

馨子さん:「個人情報が満載の名刺よね。どれでもいいですよ。ただ電話の場合、私は耳が遠くなってきたから」

渡辺:「分かりました。それならばお電話する時は、大きな声でしゃべりますね」

馨子さん:「いや、そうじゃないの。電話の呼び出し音が聞こえない時があるのよ。必要な時は、しつこく電話をならしてちょうだい」

「これ以上しつこく取材しないでくれ」と言われることはよくある。「しつこく電話をならして」という馨子さんの言葉に、改めて自分の役割を認識した。

特定失踪者家族有志の会の竹下珠路さん(左)と生島馨子さん=2024年10月29日、渡辺周撮影

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