野球選手にとってキャッチボールが基本であるように、ジャーナリストにとっては人の取材が基本だ。どんなに情報公開請求やデジタル技術を駆使できても、人をしっかり取材できなければ、読者や視聴者の心を動かすことはできない。すべての社会問題は、人の感情が交錯したところで起きる。
Tansaの若手はどんどん人を取材して、人情の機微を伝えていこう。骨太な探査報道と並行して、コラムを書いていくのがいいんじゃないか。先日、そんなミーティングを開いていたところ、「例えばどんな感じですか、渡辺さんが昔書いていたものをいくつか示してほしい」とリクエストがあった。
なるべく若い時に書いた記事がいいだろうと考え、思いつくままに幾つかピックアップした。読み返していると、そのうちの一つが胸に迫った。もちろん、当時も心が動いたから取材して記事にした。だが今改めて読むと、また違う感慨がある。
その記事は「109歳と107歳、支え合い 県内最高齢・唐沢うらさん、妹・ときさん」。2008年、敬老の日を前に書いた。当時は朝日新聞の浜松支局に勤務していた。
記事の大半は、ほのぼのとしている。例えば唐沢うらさんの長寿の秘訣について。
100歳まで茶摘みに出ていた。歌うことが好きで、よく「もしもし亀よ」と歌った。ウナギが大嫌い。食べ物の好き嫌いはある。長生きの秘訣(ひけつ)は本人も家族もよく分からないという。
妹のときさんとのやりとり。
ときさん「今日は顔色がいい。元気だね。うれしいよ、涙が出る」。
うらさん「私も悲しくて涙が出るのではなくてうれしくて涙が出る」。
ときさん「まだまだ暑いからつらいねえ」。
うらさん「生きているうちは仲良くしましょうな」。
だが記事の中盤では、うらさんが号泣した日のことを書いている。
昨年春、うらさんが号泣した。特攻隊員として24歳で戦死した次男の鉄次郎さんが、出撃の前に「第五十七振武隊」の隊員と書いた寄せ書きが見つかり、航空史の研究家が届けてくれたのだ。
「心如鉄石」「必沈」などの言葉が並ぶ中、少尉だった鉄次郎さんは「大義」と記していた。
頭が良くて足も速い鉄次郎さんがあこがれだったという弟の唐沢邦三郎さん(83)は「母は兄さんのことは戦後ずっと話さなかった。気持ちの中に秘めていたんでしょう」と話す。
記事では、100歳を超えた姉妹が手を取り合う写真と共に、鉄次郎さんの遺影を載せた。
なぜこの記事が、17年前に取材・執筆した時よりも胸に迫るのか。
それはTansaを創刊して以来、編集長として若いメンバーたちと共に仕事をしているからだ。Tansaのメンバーと同じ年頃の若者に、当時の為政者や上司たちは「死んで来い」と命じたのだ。
ここまで残酷で無責任な命令は、さすがにもう二度と発せられないだろうか。
その可能性はあると思う。憎悪の「空気」が世の中で勢いを増し、それに乗っかる形で政治権力のタガが外れていく。今の日本は戦前によく似ているからだ。戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は、著書(朝日新聞出版)のタイトルで『底が抜けた国』と表現している。その通りだと思う。
底が抜けた国でのジャーナリストの役割は、どっしりと地に足をつけて世間の空気に微動だにしないこと、その足で権力の巣に踏み込むことだ。
戦前も闘うジャーナリストはいた。だが大勢に呑み込まれて国の破滅を防げなかった。再びジャーナリストが敗北しないためには、相当な覚悟とエネルギーがいる。Tansaはやり抜く。