この記事を書いた記者、原稿を監修したデスク、見出しをつけた編集者は誰だろう?
7月9日、共同通信が「共同通信元職員、再び敗訴 社外活動取り消し『正当』」という見出しで報じた。
一審判決によると、石川氏は在職中に出版した自著で、いじめ問題について長崎県側の対応を報じた自身の記事を「地元メディアは黙殺」などと記載。共同通信社は「極めて不適切な表現」だとして社外活動の了解を取り消した。
共同通信記者(当時)の石川陽一さんが同社を訴えた控訴審で、東京高裁(古田孝夫裁判長)が7月9日に原告の請求を棄却した。そのことを共同は報じたわけだが、見出しで「棄却」ではなく「再び敗訴」という表現を使ったところに、悪意を感じる。「一記者が生意気にも組織に盾をつけばこうなる」といったところか。
本文では論点をずらしている。
裁判では、「論評であっても確認取材が必要か」が争点だった。論評自体が「極めて不適切な表現だったか」は関係ない。事実を元にした真っ当な論評だし、共同通信自身、「名誉毀損はない」と裁判で認めている。石川さんの著書の版元である文藝春秋にも抗議していない。石川さんを追い込むことで、批判されて怒っている長崎新聞への「生け贄」としているだけだ。
長崎新聞も、怒っているならば共同通信ではなく、文藝春秋に抗議すればいい。だがその勇気はない。加盟料を支払う「お客様」の立場を利用し、共同通信にしか文句を言えない。
最高裁判例になったらどうする?
「共同通信と長崎新聞は、やることがセコイねー」という声は方々から聞く。だが、笑っては済ませない事情がある。
それは「論評であっても確認取材が必要か」という裁判の争点と関係している。
石川さんは、著書でオープンデータや記者会見などの開かれた場所での事実を基に、論評した。共同通信を含むメディア各社も、事実を基にした論評を毎日のように発信している。例えば新聞の社説が、政治家の言動や、不祥事を起こした著名人について、見解を尋ねる確認取材をしているわけではない。
しかし、一審で東京地裁(大澤多香子裁判長)はこう判断した。
「長崎新聞は公人ではないから、確認取材が必要」
長崎新聞は他の報道機関とは区別されると言っているわけではないから、「公人ではない」という判断は全ての報道機関に当てはまる。
公人でないと判断するのは、報道機関の仕事に公共性を認めていないからだ。
共同通信は「共同通信元職員、再び敗訴」と石川さんへの意趣返しのような見出しをつけているが、もし最高裁も石川さんの訴えを棄却し、「報道機関は公人ではない」という判断が最高裁判例となったらどうなるか。
報道機関は、職務を遂行できなくなる。公共性が認められているからこそ、取材相手は時間を割いて無償で記者の取材に応じる。記者会見も同様だ。
マスコミ各社は特権を失われる。
官公庁に間借りしている記者クラブは、公共性がないなら退去しなければならない。
新聞に認められている消費税の軽減税率は、適用外になって当然だ。
公共放送のNHKは、受信料を徴収する根拠を失う。
ところが、Tansaが「報道の自由裁判」と名付けるこの裁判を、他メディアは報じない。各社の労働組合や個々の記者が声を上げることもない。
この状況を、危機感が薄いとか、組織内で睨まれることを恐れているとか、様々な観点で分析することはできる。ただ、どうもしっくりこない。
私が似た状況として思い浮かべるのは、ナチスドイツ下の「自由からの逃走」だ。
ドイツ生まれのユダヤ人で、社会心理学者のエーリッヒ・フロムが著書『自由からの逃走』で、ナチスを信奉した人たちの心理を分析した。
自由を手に入れても、孤独と不安に駆られ、無力感に陥る。権力や全体主義に身を委ねた方がいいと思うようになり、自由から逃走する――。
ジャーナリストの投獄や殺害が頻繁にある国に比べ、日本では報道の自由が保障されている。それにもかかわらず、同調圧力の中で自らを縛る。マスコミが緩慢な死に向かう途上にあって、無力感と不安に苛まれる。報道の自由のために闘うのではなく、逃走する。世界の「報道の自由度ランキング」が、毎年60位代から70位代に低迷しているのは逃走した結果だ。
「報道機関は公人ではない」という最高裁判例が確定したら、日本の為政者たちは「最後の一線」を突破してくる。ただでさえ「やりたい放題」の高市政権下で、権力はさらに暴走する。日本社会は完全に壊れる。
今回の裁判を傍観している記者たちは、そのことに思い至ってほしい。

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