編集長コラム

防衛費倍増と「憲政の父」の8つの警告(37)

2022年12月03日19時11分 渡辺周

「憲政の父」といわれる政治家・尾崎行雄(1858~1954)の孫で、通訳者の原不二子さんにお会いする機会があった。尾崎の精神を後世に伝える「学堂会」で、私が日本のジャーナリズムの再興について話をしたご縁だ。原さんは学堂会の創始者だ。

原さんは「民(たみ)」という言葉を使い、繰り返し私に語った。目に力がある。

「民の声を聴くのよ、決めるのは民よ。民が決めるの」

「市民」や「国民」とは違い、「たみ」という言葉の響きは地に足がついた感がある。尾崎は、軍部に政府が引きずり回されて戦争に傾いていく中、国会で「一人野党」として民のために闘い続けた。孫の原さんの言葉に、私は尾崎の原点を見た。

しかし今、民の声を聞いているとは思えない事態が進行している。

岸田文雄首相は11月28日、浜田靖一防衛大臣と鈴木俊一財務大臣に対して、2027年度に防衛費を国内総生産(GDP)の2%に上げるよう指示した。今は約1%。いきなりの倍増はタガが外れている。

なぜ2%なのかが、よくわからない。ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮の核開発、中国の軍事的脅威を背景としているようだが、何をどういう目的で予算を倍増させるのか見えない。財源もよくわからない。国債という借金で賄うにしろ、増税で賄うにしろ、経済が疲弊した日本で民の生活を圧迫することは間違いない。

尾崎ならこの状況をどう考えるだろう ? 85年前も今と似た状況で、尾崎は軍事費の増大を糾弾していた。1937年2月17日、第70回帝国議会でのことだ。

国の大方針は何だ

軍人が平然と政治家を殺す時代だった。1932年に海軍の青年将校たちが犬養毅首相を殺害した5.15事件、1936年には陸軍青年将校たちのクーデター2.26事件があった。2.26事件では、大蔵大臣の高橋是清や内大臣の斎藤実ら4人が殺害された。

それでも尾崎は、1937年の議会で軍事費の増大は軍部のせいだと真っ向から批判する。

「5.15事件のあって以来、軍部の力は非常に伸びました。陸海軍の費用はわずか4億余り、5億に足らなかったものが、今は十何億になっております」

「軍事費を2倍、3倍にしなければならぬという変化は対外関係には起こらぬ。ところが対内の事情において5.15事件以後、軍部の勢力が伸びて、あらゆる方面に伸びた。実に困ったことである」

尾崎の質疑は勇気があるだけでなく、緻密である。軍事費増大の愚を8項目にわたり質した。議事録から要約すると次のような内容だ。

①国内外の情勢からして、軍事費増大が「仕方がない」という根拠がどこにあるか理解できない。仕方がないで済ませれば今後益々軍事費が増え、国民は生活に不安を感じるようになる。

 

②「仕方がない」というのは対外的なことが原因なのか、対内的なことが要因なのか。そこがはっきりしていない。

 

③対外的なことであるならば、軍事的な脅威は陸から来るのか海から来るのか。相手がどこから来るのか分からなければ、防御しようがない。

 

④陸と海の双方から相手が来るならば、相手国は複数となり場合によっては4つの大国と戦わねばならない。そんなことがわが国にできるのか。

 

⑤軍備の拡大競争になった時、陸軍と海軍は相手国と同等以上の軍事力を持つことができるのか。

 

⑥軍備の拡充と国防の安全は違う。国防は相手があることなので、こちらが軍備を拡充しても相手がそれを上回れば国防は危うくなる。

 

⑦日本とドイツの防共協定が共産主義を防ぐのに何の役に立つのか。ドイツに有利ではあるが日本に有利なところはない。この協定がソ連に与える影響を真っ先に考える必要がある。ドイツとの協定を強化していって、救いようのない結果になることが心配だ。

 

⑧一番重要なのは、日本の大方針である。武力と経済のどちらで発展していくのかくらいは、方針として持っていなければならない。方針もなく、北に向かったり南に向かったり。海に進出したかと思えば、大陸にも触手を伸ばす。そんなことでは到底、国の目的を達成することはできない。

あなた方記者は何をやっていたのか

尾崎の質疑に対して、陸軍出身の首相である林銑十郎が「尾崎君は特別に老婆親切をもって、たくさんのことを言われた」とはじめに言ってから答弁する。

「東洋の現在の実際の状態であります、満洲事変事後の満洲国を中心としたその周囲の形勢、この形勢はいかにも一触即発というような状態にあります」

「普通の場合において外交上心配がないと思うようなことでも、軍部の当局としましては、外交のみに安心しているわけにはいかない」

林首相は尾崎の警告を聞き入れず、ここから日本は転がるように破滅に向かう。

尾崎と林のやりとりがあった時から5か月後、1937年7月7日には盧溝橋事件が起きた。日本は中国との全面戦争に突入し、政府が軍部に振り回された挙句、1941年12月8日には米英両国に宣戦布告する。

日本人だけで300万人を超える犠牲者を出して敗戦したのは、1945年8月15日。尾崎が軍事費の増大を批判した国会から、わずか8年後のことだった。

尾崎は政治家になる前、新潟新聞の主筆や報知新聞の論説委員を務めた。その分、ジャーナリストへの思いは強かったようだ。軍部の議会政治への介入を阻止するため、メディアと連携して憲政擁護運動を展開したこともあった。

しかし、ジャーナリストはその役割を果たさなかった。戦後に新聞記者2人が尾崎を訪れた時のエピソードを学堂会が紹介している。NIRA研究報告書『尾崎行雄の政治理念と世界思想の研究』からの引用だ。

尾崎はこう言って記者たちを返してしまったという。

「あなた方は戦争中に何をやっておられたのか。次のお客が待っているから帰れ」

防衛費が倍増されようとしている今、私たちジャーナリストは同じ過ちを犯すわけにはいかない。

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