精密工作機械メーカーの元エンジニア、矢倉富康(当時36歳)は1988年、山陰沖で漁をしていて失踪した。
矢倉は、勤めていた機械メーカーが倒産した後、鳥取県の境港を拠点にする漁師となった。矢倉の漁船「一世丸」は同年8月2日の朝に境港を出発したが、帰港予定の翌朝になっても戻ってこない。1週間後の10日、島根県の竹島沖で漂流している一世丸を海上保安庁が発見した。船内は無人だった。
海保が注目したのが、一世丸の左舷にあった傷だ。他船に衝突された痕跡で、青い塗料がついていた。国内では見かけない。北朝鮮の工作船で使われる塗料とよく似ていた。
矢倉は北朝鮮に拉致されたのか。
実は、矢倉のケースとそっくりの失踪事件が、その25年前にも起きていた。
この事件の失踪者の1人、寺越武志は、いま北朝鮮にいる。
矢倉富康さんが1988年に出港した鳥取県の境港(2022年4月28日、撮影=渡辺周)
メバル漁に出かけたまま
1963年5月11日午後1時すぎ、石川県志賀町の高浜漁港から、3人乗りの漁船「清丸」が出港した。当時13歳の寺越武志、その叔父にあたる24歳の寺越外雄と36歳の寺越昭二である。
メバル漁をして、その日の夜には戻る予定だったが帰港しない。翌朝、清丸は高浜漁港の沖合7キロの地点で発見された。漁網が仕掛けられたまま、無人だった。
船の左舷には他の船と衝突した跡があり、塗料が付着していた。日本では使われていない塗料だ。
矢倉富康の失踪でも、乗っていた「一世丸」の左舷に衝突痕があった。付いていた塗料は日本では使われていないものだった。同じパターンである。
寺越武志と2人の叔父は一体どこに行ってしまったのか。全く手がかりがなかった。海上保安本部は、行旅病人および行旅死亡人取扱法に基づいて3人の死亡を認定し、家族は3人の葬儀を行った。
息子からの説明
寺越武志、その叔父の寺越外雄と寺越昭二の3人が失踪して約24年、1987年1月のことだ。叔父の外雄から姉の友枝(武志の母)の元に手紙が届いた。北朝鮮からだった。3人とも北朝鮮にいるという。
手紙から半年後、武志の両親は息子に会うため、旅行者として北朝鮮に入国した。武志は「キム・ヨンホ」という名前で、ピョンヤンから電車で4時間ほどの工場で働いていた。その後も母の友枝は度々北朝鮮を訪問した。
武志は北朝鮮にいる経緯を母に説明した。
「正体不明の船に衝突し、海に投げ出されて意識を失った。気がついたら北朝鮮の船に救助されて、そのまま北朝鮮で暮らすようにになった」
明らかに不自然である。だが本当のことは北朝鮮政府の監視下で言えるわけがない。友枝ら家族の方も「息子は北朝鮮に拉致された」と言えば、武志の身に危険が及ぶ可能性がある。武志に会うため北朝鮮への渡航もできなくなるかもしれない。友枝らは拉致だと公言することはあきらめた。
小泉訪朝の前年に
2001年、北朝鮮で寺越武志の手記と称する本が出版された。題名は『人情の海』。北朝鮮の平壌出版社が版元だ。
翌年の2002年9月17日、小泉純一郎首相が訪朝し、金正日総書記が北朝鮮による日本人拉致を初めて認める。その前年、日朝間で水面下の交渉が行われていた時期での出版だ。
だが本人が書いた可能性は低い。本人が書きそうにない誤りがあるからだ。例えば、武志の日本での中学の担任「西東(さいとう)」を「ニシアズマ」と表記している。「西東」は石川県の能登地方に多い姓だ。
『人情の海』は日本では出版されていないが、荒木信子が日本語に訳した。信子は、民間団体の特定失踪者問題調査会で代表を務める荒木和博の妻だ。一部引用する。
北朝鮮に入国した経緯は美談として描かれている。
ひどく大きな黒い物体が私たちの船の船首左舷に衝突した。その衝撃に船はその時ひっくり返ったように激しく揺れた。体のバランスがとれなかった。そのはずみで船のへりに立っていた昭二叔父が海に落ちた。
船尾側についていた明かりも割れたのか、何も見えなかった。船が転覆すると思った私たちは海へ飛び込んだ。沖合まで来たので海岸は見えず、点滅する灯台の灯も見つからなかった。私たちの船にぶつかった大きな船は知らん顔で遠くへ去って行った。
私が意識を取り戻したのは5月15日正午頃。そこは清津だった。清津は朝鮮の北部にある咸鏡北道の道庁所在地だ。日本からはおよそ900キロメートルもある遠いところだ。
後で知ったことだが、私たちを救ってくれたのは清津水産事業所の漁船員たちだった。航行途中、彼方で揺れている妙な物体を見つけた彼らは、40分近くかけて近くまで行ったみたところ、生死不明の3人の人間だった。助けてみると3人は意識を完全に失った状態で、そのうちのひとりは少年だった。簡単な応急処置をした後、補給船に移し清津に送ったということだ。
その後、北朝鮮の国籍を取得した時のことを振り返る。「首領様」である金日成と「将軍様」である金正日を賛美する。手記のタイトルになっている『人情の海』という言葉はここで登場する。
父なる首領様と敬愛する将軍様が広げられた人徳政治、人情の海は、蒙昧で愚かなせいでありもしない『過酷な処罰』に怯えていた私たちを、その広い懐に感謝の念を抱き真の朝鮮公民となる転換の道を開いてくれた。
そして、拉致問題について次のように締めくくる。
現代はゴリ押しが通用しない公正な社会である。「拉致」されたと彼らが言う人の実態がなく、「送還」を望む人もない「拉致問題解決」をどんなに騒いでもそれは理性に通用しない。「拉致」問題が「解決」されてはじめて日朝国交正常化問題が解決されるという日本当局者の声は、ただちに日本を永遠の犯罪国にしばりつけるだろう。そして日本人全員を恥も知らず、間違いをすぐに直す術も知らない下品な人間にするだろう。
私のことを「拉致」されたと不当な言い掛かりをつける日本の不純階層は今さらではあるが、贖罪と正しい選択をしなければならない。私は同じ血を引く日本人としてこれを再び勧告する。
=つづく
(敬称略)
消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。
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