消えた核科学者

転職話で工作員が誘い出したら(48)

2024年05月01日9時03分 渡辺周

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1972年に退職し失踪するまでの2年間、竹村達也は動燃の技術部検査課に所属した。

フランスの高速増殖炉にプルトニウム燃料を納めるプロジェクトで失敗し、左遷された。

そこでの竹村は、職場の友人たちとカーシェアリングをするなど私生活で人付き合いがあった。前任部署のプルトニウム燃料部では、仕事一筋。職場と独身寮を往復する日々で、寮の麻雀や飲み会にも参加することがなかった。

退職後は、転職したものと思われていた。プルトニウム燃料部での同僚たちが証言した。彼らが挙げる竹村の転職先は、京セラ、三菱原燃、旭化成とバラバラ。だがいずれにも転職していなかった。

退職間際に竹村に何が起こっていたのか。

私は技術部検査課のOBを取材するため、仙台に向かった。彼は当時、住んでいた寮も竹村と同じだった。

送別会では

仙台市内に住む技術部検査課のOBは、私の突然の訪問をいぶかった。だが、私が竹村の名前を挙げて失踪したことを告げると、自宅のインターフォン越しに取材に応じた。

「途中退職されたことは知っていますけど、失踪したことは知りません。竹村さんは私より先輩で34~35歳だったかなあ。私とはあまり親しくなかったですから。元々竹村さんは別の部署にいて検査課に来られましてね。1、2年一緒なだけでしたから」

――警察が「北朝鮮に拉致されたかもしれない」と疑い、動燃に調べに来たという話があります。

「いや、いや、存じません。警察沙汰になったことも知りません。今初めて聞いたなあ、警察がどうのこうのって。失踪したこと自体知らないんだから」

――実家は大阪です。

「大阪大学出身ですもんね。原子燃料公社の時代の入社で2期目か3期目なんじゃないかな。彼は」

――退職するというのは、竹村さんから聞いたのですか。

「いや、いや、同じ課だったから送別会をやったんですよ。突如としてやめたんじゃなくて、きちんと送別会をやりましたよ。辞める人の送別会は必ずやっていましたから」

――本人は何を話していましたか、送別会は居酒屋でやったのですか。

「竹村さんはあまりモノをいう人ではなかったから、何を話したかは覚えていませんし、どんな店でやったかも覚えていません。どこでやったかも覚えていないくらい通常のことでしたから。でも東海村で送別会をやりましたね」

――転職したという話が動燃のOBたちから出ています。

「いや、そんな話はなかったです」

――竹村さんと同じ独身寮に住んでおられたんですよね。

「うん」

――竹村さんは独身寮で、ナンバーが3298のカローラを仲間内でシェアしていたと聞いたんですが。

「いや、知らない。私が独身の時のことだから記憶にない。とにかくね、今初めて聞いたなあ。警察がどうのこうのって。失踪? していたら印象深いよね、途中からいなくなったりしたら印象深いよね。とにかくよく分からないし、失踪したことも知らないし、竹村さんは普通に辞めていかれましたよ。私は警察に聞かれたこともないし。ふーん、初めて聞きましたね」

そのOBは「あなたの名前をフルネームでお聞きできますか」と言ってきたので、私は氏名を伝えた。名刺もマンション1階の郵便受けに入れて、その場を去った。

三つの疑問点

疑問点が三つ浮かんできた。

一つは、技術部でも工務課のOBは竹村が失踪したことを知っていたのに、竹村と同じ検査課のOBが失踪の事実を初めて聞いたということだ。検査課のOBは寮も同じだった。

二つ目は、検査課のOBが警察から竹村のことについて聞かれていないことだ。竹村が検査課に来る前にいたプルトニウム燃料部の職員たちは、勝田署の刑事に話を聞かれている。竹村が動燃での最後を過ごした検査課の職員に、警察が話を聞かないということがあるだろうか。

たとえ私が取材した検査課のOBが警察から話を聞かれていないとしても、検査課の誰かが話を聞かれていれば、竹村失踪の事実を知るはずだ。だが取材した検査課のOBは、私から聞かされるまで知らなかったという。

三つ目は、検査課で開いた竹村の送別会だ。送られる側が、動燃を退職した後にどうするかを言わないことなどあるだろうか。竹村は当時、まだ30代後半である。転職先が決まっていたなら尚更だ。送る側も今後の身の振り方について尋ねるだろう。

有本恵子や原敕晁も

いずれにせよ、はっきりしていることがある。

それは、竹村達也は京セラにも、三菱原燃にも、旭化成にも転職していなかったということだ。

動燃の人事部が竹村の未払いの期末手当を支払おうと、転職先と思われる会社に電話した。「そんな人は来ておりません」と言われた。転職話が本当であれば、動燃が電話をした相手の会社は「うちに来る予定でしたが来ていないんですよ」と答えるはずだ。

転職の話そのものが、架空だった可能性が高い。

北朝鮮による拉致は、工作員が被害者を強引に連れ去るイメージが強い。横田めぐみは中学1年生の時、バドミントンの部活を終えて帰宅する途中に拉致された。蓮池薫・祐木子ら帰国を果たした拉致被害者たちも、工作員に襲われて拉致されたと明かしている。

だが、暴力的な拉致だけではないだろう。新たな仕事を紹介するようなやり方もあったのではないか。調べると、それがあった。

例えば、日本政府が拉致被害者として認定している有本恵子(当時23歳)だ。

神戸市外国大生でロンドンに語学留学していた1983年8月9日、帰国予定の日に、神戸市内の実家に電報が届いた。

「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」

その2か月後、デンマークのコペンハーゲンから手紙が実家に届いたのを最後に消息が分からなくなった。

2002年3月15日の参院予算委員会で、法務省刑事局長の古田佑紀は拉致の手口について、次のように答弁している。

「(犯人は)1983年7月ころ、ロンドンで知り合った日本人留学生有本恵子さんに対して、北朝鮮で市場調査の仕事があるとうそを言いまして北朝鮮に渡航することに同意させ、その上で有本さんをコペンハーゲンで北朝鮮の工作員に引き渡した」

つまり、仕事を口実に有本をおびき出し、拉致したのだ。

同じく政府が拉致被害者に認定している原敕晁(当時43歳)も、転職先を紹介するからと誘い出され、1980年6月に宮崎県の海岸から拉致された。中華料理店の店員だった原は、工作員から貿易会社の仕事を紹介された。貿易会社の社長に扮した工作員も交え面接まで行われた。

レバノンでは1978年、「アラビア語とフランス語に堪能で独身であること」という嘘の求人情報に、レバノン人女性4人が応募。面接に合格した女性たちは「日本で研修がある」とだまされて、北朝鮮に拉致された。工作員は日立製作所の関係者を名乗った。

有本や原のケースは、すでに北朝鮮による拉致事件であることを政府が認定しているがそれだけではない。民間組織の特定失踪者問題調査会の調べでは、同様の手口による拉致疑惑が少なくとも10件ある。

例えば、朝鮮戦争が休戦となった1953年、長崎市内から失踪した徳永陽一郎(当時18歳)。

徳永は長崎市内の染料店の配達の仕事をしていた。別の勤め口の話があり、履歴書を書いている途中で突然いなくなった。履歴書に貼る写真の撮影も済ませていたが、それも受け取っていない。後日、家族に借りていた1500円を同封した書留が送られてきた。

そこには「いい仕事があった」「歩いてでも帰ってきます」と書かれていた。しかし徳永は帰ってこなかった。

1998年から1999年、徳永を北朝鮮で目撃したとの情報が脱北者からもたらされる。

その脱北者によると、徳永は酔っぱらった時に「拉致されてきた、日本に亡命する」と言ったのを密告され収容所に入れられた。取り調べの書類には「1954年~55年、日本から朝鮮に来た」と記されていた。身体検査では右肩に、刃物による傷痕があった。徳永には右肩に子どもの頃に鎌で切った傷痕がある。

竹村達也の転職話も架空だった可能性が高い。例えばこう考えられないだろうか。

動燃で左遷されて気を落としていた竹村に、民間企業の社員を装った工作員が近づいて言う。

「あなたは米国で世界最先端の核関連技術を学び、プルトニウムを扱う技術では日本で指折りの人材だ。それなのに、あなたを左遷するなんて動燃は見る目がない。私たちの企業ではあなたの技術をどうしても必要としている」

仕事一筋で、自分の腕に自負を抱いていた竹村だったらどう思うだろうか。

発電所、農地、住宅が混在する茨城県東海村(2020年3月29日、撮影=友永翔大)

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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