日本政府はこの18年間、新しく1人も拉致被害者として認定していない。警察による捜査が進展しないからだ。
日本の国土で、国民を外国に拉致されてしまったというのは、警察の失態だ。捜査が進み、現在認定されている17人以外にも拉致被害者がいるとなれば、警察はさらに失態を晒すことになる。警察が拉致の捜査に本腰を入れないのは、組織の保身のためだと考えられる。
だがなぜ、このような警察の態度がまかり通るのか。背景には、近年の警察出身者の政治参画がある。
続々と官邸入り
元来、警察出身者が政権の中枢に入るポストは、内閣情報調査室長くらいに限られていた。それが2000年代後半から流れが変わる。
警察庁の外事課長を務めた北村滋は、2006年に第1次安倍晋三内閣で首相秘書官に。その後内閣情報官を経て、2019年には国家安全保障局長に就いた。
元警察庁長官の漆間巌は、麻生太郎内閣の下で2008年に内閣官房副長官に就任した。
第2次安倍晋三内閣が発足した2014年12月には、元警察庁警備局長の杉田和博が官房副長官に就き、以降9年間に渡ってその職にあった。杉田は、内閣人事局長も途中から兼任した。幹部官僚の人事権を握るので、絶大な力を持つポストである。
2021年には岸田文雄内閣の下で、元警察庁長官の栗生俊一が内閣官房副長官に起用された。杉田の後を継いだ格好だ。
こうしてみると、拉致疑惑の捜査が進まない期間は、政権の中枢に警察出身者が入ってくる時期と重なっていることが分かる。
拉致捜査に最も精通している人物
官邸入りした警察官僚の中でも、拉致捜査について最も詳しい人物が北村滋だ。「拉致のことなら北村氏に聞けばいい」という言葉を、私は官邸や警察関係者から何度も聞いてきた。
北村は拉致問題に精通していると共に、日本から北朝鮮への科学技術の流出を警戒してきた。日本の技術が北朝鮮の核兵器開発に利用されているという見立てだ。
北村は退官後の2022年10月、文藝春秋に「外事警察秘録 北朝鮮『不正輸出を摘発せよ』」という手記を寄せた。
その中で、「万景峰号を重視」という見出しで次のように書いている。万景峰号は北朝鮮の貨客船で、北朝鮮と主に新潟港を結んで不定期に就航していた。2006年に北朝鮮が核実験を実施してから、日本への入港禁止が続いている。
核やICBMを持ち出す北の挑発に接する度に思うことがある。それは、その研究、開発に利活用された物資や技術の少なからずが、日本国内の調達拠点から送られたものだという事実である。
2004年8月から2年間の警察庁外事課長時代、私は新潟に入港する北朝鮮貨客船『万景峰(マンギョンポン)92』号――我々は当時略して『マンギョン』と呼んでいた――をしばしば直接、視察していた。私がこの『現場』を重視したのは、北朝鮮の体制維持に直結するヒト、モノ、カネ、情報が、この船によって持ち出され、一方でこの船を通じて北朝鮮から日本人拉致を含む秘密の工作指令がもたらされていた事実を重く見ていたからだ。
朝鮮総連傘下の科協幹部2人を逮捕した事件についても、北村は手記で詳細を明かしている。以下、要旨だ。
2005年10月14日、警視庁公安部は薬事法違反の疑いで、兵庫県にある医薬品製造会社の社長と、東京のソフトウエア会社の社長を逮捕した。医薬品製造会社の社長は、医薬品販売業の許可がないのに、高麗ニンジンの成分が入った錠剤などを販売した容疑。ソフトウェア会社の社長は自社のホームページで、それらの医薬品の効能を「ガン、エイズを撃退」とうたった広告を掲載した容疑だ。
だが警視庁公安部の狙いは、薬事法違反の摘発とは別のところにあった。逮捕された2人は、いずれも「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)の幹部を務めていた。科協とは、日本の「在日本朝鮮人総連合会」(朝鮮総連)の傘下にある組織で、在日朝鮮人の科学者が、祖国北朝鮮に科学技術で貢献することを目的としている。
警察は、かねてより科協による日本の最先端科学技術の北朝鮮への流出を疑っていた。容疑者の会社や科協を一斉に家宅捜索した。
北村によると、逮捕した科協幹部が経営するソフトウェア会社から、防衛庁のミサイル関連技術の資料が見つかった。
資料には、防衛庁が研究していた「三式中距離地対空誘導弾システム(中SAM)」が含まれていた。中SAMは、敵の戦闘機やミサイルを地上から迎撃するミサイルだ。
防衛庁は1993年から95年にかけて、研究開発を三菱電機に委託。三菱電機が研究開発に関する社内報告書の作成を、三菱総合研究所に再委託した。三菱総研はさらに、関連業務の一部を外部委託した。その委託先が逮捕した科協幹部が経営するソフトウェア会社だった‥‥。
以上が北村が手記で明らかにした事件の概要だ。
北村滋「我が国の科学技術が北朝鮮の核・ミサイルに」
事件から1年後の2006年10月9日、北朝鮮はついに初の核実験を行う。北村は1か月前に、警察庁外事課長から第1次安倍晋三内閣の秘書官に転じたばかり。この時の心境を手記の中で振り返っている。
実験当日、10時半過ぎ、総理大臣秘書官室。
「この実験に、我が国から持ち出された物資や技術、情報がどれほど悪用されていたのか」「『科協』の活動を通じて、北朝鮮が核濃縮技術に多大な関心を払ってきたことは分かりきったことではなかったのか」「何故それを阻止できなかったのか」。核実験成功を報じるテレビ画面を見ながら、自問自答を繰り返した。そんな思いをひきずりながら、官邸の留守を預かる立場として、実験の一報を韓国訪問中の安倍総理に連絡したこと、政府の対処方針を塩崎恭久官房長官、安藤裕康内閣官房副長官補とともに起案したことを記憶している。
北村は、科協が北朝鮮に日本の科学技術を流出させたことが、今も尾を引いていると考えている。
「科協」は、北朝鮮の軍需科学の根幹を支える役割を担っていた。今でいうITT(Intangible Technology Transfer)の中核組織と言っていい。我が国から北朝鮮に流出した科学技術が、北朝鮮の軍事技術の向上に悪用され、結果的に核・ミサイルとなって日本を脅かしている――正に機微技術の流出が国の安全保障に直結することを証明する事件であった。我が国が受けた被害は、現在も継続し、むしろ増幅しているのかもしれない。
私は北村に、竹村達也の失踪事件について話を聞きたいと思った。竹村の失踪は、拉致問題と北朝鮮の核開発とが交錯する事件である。北村は重大な関心を寄せているに違いない。
しかし北村からは「個別案件の取材は見合わせている」と断られた。
文藝春秋の手記ではその「個別案件」を詳細に綴り、警察の業績を披露している。なぜ竹村の件は語らないのか。
存命なら88歳の竹村
一度パンドラの箱を開けると、知られたくない事実が芋づる式に明らかになる。そのことを、日本政府の中枢の座にいた警察官僚たちは警戒してきたのではないか。
日本政府が、拉致の事実を封印したことが明らかに分かる事例がある。神戸市出身の元ラーメン店員、田中実とその同僚の金田龍光のことだ。
1978年6月ごろ、田中(当時28歳)が失踪した。金田(当時26歳)は翌年の11月に行方不明になった。
田中に関しては日本政府が拉致被害者として認定したものの、北朝鮮は否定。金田に関しては警察が「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」としてリストアップしていた。
そこへ2018年、共同通信のスクープにより新たな事実が発覚する。
北朝鮮が2014年に日本政府に対して、田中と金田が北朝鮮に「入国していた」と伝えていたのだ。このことは2022年9月、元外務事務次官の斎木隆昭も朝日新聞のインタビューで証言している。
ところが日本政府は、田中と金田の帰国に向けて動くことはなかった。金田は拉致認定されることなく、今でも「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」の1人にすぎない。
日本政府は、拉致被害の全容解明と被害者全員の救出を掲げている。田中と金田の件を最後に北朝鮮に幕引きされることを警戒したのだという見方はある。
だが、何の進展もない中で北朝鮮が自ら、田中と金田が北朝鮮にいることを認めたのだ。それを放置するということは、日本政府が自ら拉致問題を封印しようとしていると疑わざるを得ない。
政府が封印しておきたいという意味では、竹村の失踪事件は最も当てはまるだろう。竹村は動燃でプルトニウム製造係長を務めた。核技術の流出という国の安全保障に関わる。
北朝鮮は今も、3代目の金正恩総書記のもと核実験と日本に向けたミサイル発射を繰り返す。しかし日本政府は拉致問題を、掛け声ばかりで一向に進展させることができないでいる。
竹村は失踪当時36歳。存命ならば88歳である。彼の目にこの状況はどのように映っているだろうか。
特定失踪者問題調査会主催「『お帰りと言うために』拉致被害者・特定失踪者家族の集い」で掲げられたパネル(2023年10月21日、撮影=渡辺周)
=おわり
(敬称略)
消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。
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北朝鮮による拉致問題は、被害者やその可能性がある家族の高齢化が進んでいるにもかかわらず、一向に進展がありません。事実を掘り起こす探査報道で貢献したいと思います。「消えた核科学者」の連載はこの回で終了しますが、取材は続けます。
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