強制不妊

「精神薄弱児」施設の火災 連載レポート(4)

2018年03月01日5時00分 加地紗弥香

FacebookTwitterEmailHatenaLine

全焼した亀亭園とその見取り図。写真は1956年12月11日午前3時30分撮影(初出:朝日新聞1956年12月12日付朝刊宮城版、著作権切れ)

飯塚淳子は14歳の秋、宮城県石巻福祉事務所により「家庭指導困難な児童」として県の中央児童相談所あての報告書をつくられた。報告書にはこうある。

「盗みの嫌疑が再三かけられ、集落でも学校でも素行が悪くなった」(*1)

淳子にとってまったく心当たりのないものだった。

その報告書から5ヶ月、1960年4月に淳子は親元から離され、仙台市にできたばかりの小松島学園に入所させられることになった。

小松島学園は、宮城県内の「精神薄弱児」を入所させるための施設で、この年に開所したばかり。淳子は1期生だった(*2)。

淳子が小松島学園でどのような生活を送ってきたのか。そのことを報告する前に、小松島学園ができるまでの経緯を振り返る。

小松島学園がつくられたきっかけは、「精神薄弱児」の入所施設である亀亭園の火災だった。宮城県内で唯一の県立の「精神薄弱児」施設が焼失した。

1956年12月11日午前3時頃、仙台市長町越路にある亀亭園で火災が発生した(*3)。

消防ポンプ車7台と地元の消防団が駆け付けるが、施設が高台にあったため、思うように消火活動が進まない(*4)。

たちまち燃え広がり、木造平屋建て4棟が全焼した(*5)。

約50人が入所していた(*6)。焼け跡からは11歳の少女と少年、16歳の少年の計3人が遺体で見つかった(*7)。

この事件を伝える翌日の朝日新聞宮城版では、園長が亡くなった3人について「どうして焼け死んだのか分らないが、三人は口のきけない一番知能の低い子供たちなので、いったん外に出てから火の中に入って行って煙に巻かれたのではないかとも考えられる」と語っている。

この火事から3ヶ月後の1957年2月12日。

仙台市にある旅館の白萩荘(*8)に、宮城県内から教育・福祉関係者ら200人あまりが集まった(*9)。

精神薄弱児福祉協会の設立総会に参加するためだった。

(敬称略)

[おことわり] 文中には「精神薄弱」など差別的な言葉が含まれていますが、当時の状況を示すために原文資料で使用されている言葉をそのまま使用しました。

=つづく


*1 福祉事務所が作成した「児童記録票」の添付資料。「児童記録票」には様々な添付資料が含まれ、1959年9月から同年10月にかけて作成された。

*2 飯塚淳子への取材、2018年2月28日午後5時からの取材、仙台市内で。

*3 朝日新聞1956年12月12日付朝刊宮城版。

*4 朝日新聞1956年12月12日付朝刊宮城版。

*5 朝日新聞1956年12月12日付朝刊宮城版。

*6 朝日新聞1956年12月12日付朝刊宮城版。

*7 朝日新聞1956年12月12日付朝刊宮城版。

*8 現在のホテル白萩。当時は木造2階建て。1978年から現在の名称になったという。出典:ホテル白萩への取材、2018年2月24日午後5時28分から、電話で。

*9 河北新報1957年2月13日付朝刊。

強制不妊一覧へ