強制不妊

運命の判定 連載レポート(18)

2018年05月31日6時02分 加地紗弥香

飯塚淳子への不妊手術の必要性を認めた宮城県精神薄弱者更生相談所の文書

飯塚淳子は小松島学園を卒業した後、不動産業を営む家庭に住み込みのお手伝いさんとして働くことになった。しかし奥さんにつらく当たられる。耐えられなくて逃げ出したが、一文無しでは遠くにも行けず、その日のうちに連れ戻された。1962年の冬のことだ。

その直後の1962年12月24日、仙台市北社会福祉事務所長の庄司重二郎が、淳子に関する二つの文書を出した。それを淳子は情報開示請求で入手した。

一つは、宮城県精神薄弱者更生相談所長に宛てた「判定依頼書」。そこでは淳子を「精神薄弱者」とし「総合判定を依頼します」とある。

もう一つは、淳子を連れて宮城県精神薄弱者更生相談所に出向くよう、保護者に要請した通知書だ。

開示された文書では、保護者の名前は黒塗りにされている。しかし他の文書との関連から、淳子の実親ではなく、住み込み先の保護者であるとみられる。

通知書にはこう書いてあった。

「飯塚淳子(本文は実名)殿について専門的判定を受けて頂きたいので昭和38年(1963年)1月11日宮城県精神薄弱者更生相談所に出向いて本書を提出し判定をうけて下さい」(*1)

小松島学園では、福祉事務所の職員たちがよく出入りしていた。学園の指導官で子どもたちから「ポパイ」と慕われた三宅光一は、この職員たちは学園の女生徒たちに不妊手術を受けさせるため、その手続きで来ていたのではないかとみている。

小松島学園にいた約1年間、淳子のもとを福祉事務所の職員が訪れることはなかった。しかし学園を卒業後、住み込み先で働く淳子を、仙台市北社会福祉事務所長による通知書が追いかけてきたのである。

しかし、通知書が来ていたことを、淳子は知らなかった。淳子に通知書がきていることは誰も教えてくれなかった。

淳子が住み込み先の奥さんと宮城県精神薄弱児者更生相談所に出向いたのは、年が明けた1963年1月11日のことだった。

相談所では、淳子への面接と知能検査が行われた。判定書は要約すると以下のようなものだった。

▽性格其の他 「礼儀、対人態度良好」

▽総合判定 「精神薄弱者、軽症魯鈍、内因性」「職親(*2)委託適当と認む」「優生手術の必要を認められる」

「内因性」とは「遺伝性がある」、「魯鈍(ろどん)」は「軽度の知的障害」という意味だ。魯鈍という言葉自体に「軽度」という意味が含まれているのに、判定は「軽症の魯鈍」とさらに「軽症」という言葉を重ねている。

淳子は当時のことを振り返る。

「突然、相談所に連れて行かれて知能検査をされ、何が何だかわからず、頭が混乱していました」

しかし、下された判定は「優生手術の必要を認められる」というものだった。

淳子はこの日から程なく、住み込み先の奥さんに伴われ、愛宕橋の先にある診療所へ連れていかれる。そして、何の説明もなく不妊手術をされてしまった。

(敬称略)

本文には「精神薄弱」など差別的で不適切な言葉が使われているが、当時の状況や実態を伝えるために使用した。

=つづく


*1 カッコ内はワセダクロニクル。

*2 ここでは「職親(しょくおや)」とは飯塚淳子の住み込み先の保護者のことを指している。

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