双葉病院 置き去り事件

オフサイトセンター崩壊(6)

2021年03月15日19時03分 中川七海

撤退後のオフサイトセンターに残されていたホワイトボード。双葉病院にいる患者数が実態とは異なる=2014年6月20日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

3月14日夜、双葉病院に、福島第一原発2号機がメルトダウンしたという情報が入った。地震の発生いらい病院を守っていた鈴木市郎院長は、救援に来ていた双葉署副署長の新田晃正に、一時避難することを説得され受け入れる。残っていた病院関係者ら3人と双葉署の署員たちと一緒に、双葉病院から18キロの割山トンネルに退避した。15日午前0時のことだ。

自衛隊も、第12旅団の部隊が14日の午前に132人を救出したきり、やって来ない。

双葉病院はとうとう、92人の患者と3体の遺体だけになってしまった。

同じころ、原発から5キロ、双葉病院から1キロにあるオフサイトセンターも福島県庁への撤退準備を始めた。

オフサイトセンターは本来、現地対策本部として住民の避難に責任を持つ。だが11日の地震発生以来、その役目をまともに果たしていなかった。

オフサイトセンターでは何が起きていたのか。

いきなり真っ暗(11日午後5時〜12日朝)

「オフサイト」とは、原発の敷地内である「オンサイト」から離れた場所に位置するという意味だ。原発事故の際、現地対策本部になる。

原発事故後、オフサイトセンターの現地対策本部長は経産省副大臣の池田元久が務めた。東電副社長の武藤栄、福島県副知事の内堀雅雄もここに詰めている。

地震発生から2時間後が過ぎた11日午後5時、経産副大臣の池田が本部長としてオフサイトセンターへ派遣されることが、東京の経産省で開かれた緊急災害対策本部で決まった。

12日午前0時、池田は車やヘリを乗りついでオフサイトセンターに到着した。

ところが、オフサイトセンターは真っ暗。停電していた上、非常用の電気も起動しなかった。

とりあえず、オフサイトセンターの隣で、電気が来ている原子力センターに入ることにした。原子力センターは県立の施設で、原発のPRや放射能の測定をするのが仕事だ。

原子力センターには、福島県副知事の内堀ら何人かはすでに来ていたが、人数は少なかった。

午前1時にようやく電気が復旧し、池田たちはオフサイトセンターに移った。朝にかけて、徐々に警察や自衛隊、福島県、東電の職員が集まってきた。現地対策本部はようやく150人ほどになった。

地震発生から18時間が経過していた。

取り残された患者数も知らない(12日、13日)

大熊町にあったオフサイトセンター。今は取り壊され残っていない=2014年3月27日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

12日午前6時、オフサイトセンターに置かれた専用電話に、経産省から電話がかかる。

「住民は、第一原発から10キロ圏外に避難するように」

ここから四苦八苦するのが、福島県・県民生活課長の高田義宏だ。

高田は、オフサイトセンターで住民安全班長を務めていた。大熊町をはじめ、原発近隣の自治体職員を指揮して住民を避難させるのが役目だ。

だが、原発周辺の住民の避難状況がなかなか掴めない。本来なら近隣自治体の職員もオフサイトセンターに参集し、共に情報収集にあたるはずだった。だがどこの自治体も自分のところで精一杯で、担当者が来ていない。高田は行政専用の電話であちこちの役場に電話した。しかし通話中が多くなかなか通じない。

オフサイトセンターからわずか1キロの双葉病院の状況も、高田にはよくわかっていなかった。

12日午後2時、双葉病院は209人の患者が乗った避難第一陣のバスを送り出した。残ったのは双葉病院の129人と、ドーヴィル双葉の98人の計227人だ。

13日午後1時からオフサイトセンターで全体会議が開かれた。そこでは双葉病院の状況が報告された。患者がまだ残っているという報告だ。しかし報告された人数は、実際より46人も少ない数だった。

「双葉病院81人、ドーヴィル双葉100人、自衛隊バスで搬送予定」

「相当数が逃げた」(14日朝〜15日午前0時10分)

オフサイトセンターに残されていたホワイトボード。原発周辺の線量が記録されている=2014年6月20日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

3月14日午前、自衛隊第12旅団の部隊が双葉病院とドーヴィル双葉へ救助活動に行き、132人をバスに乗せたところで満席になる。今度は95人の患者が取り残されたが、病院側は次の救助が来るものと思っていた。

しかし双葉病院の状況をよそに、オフサイトセンターでは緊迫感が増していく。

オフサイトセンターの線量がぐんぐん上がった。屋外は毎時800マイクロシーベルト、屋内でも数10マイクロシーベルトだ。原発事故後、福島などの自治体は除染の目標を毎時0.23マイクロシーベルト未満に設定している。オフサイトセンターの線量は屋内でその100倍、屋外でその3000倍を超していた。

住民安全班長の高田は不安になった。

「このままここで死んでしまうのではないか」

午後6時ごろには、オフサイトセンターのトップで経産副大臣の池田のもとに、センターにいた東電社員が飛んできた。

その社員は池田にメモを見せた。第一原発2号機について、これから2時間おきにどう推移していくかが書かれていた。

「18時22分燃料露出。20時22分、炉心溶融。22時22分、格納容器損傷」

メルトダウンが間近に迫っていた。

午後7時20分、オフサイトセンターで緊急の幹部会議が開かれる。池田や副知事の内堀、東電常務の小森明生、陸上自衛隊中央即応集団の副司令官、今浦勇紀らが参加した。ここでオフサイトセンターからの撤退を検討した。

その直後の全体会議で、福島県庁に行く方針を決めた。副知事の内堀が先遣隊を編成して県庁に向かうことになった。先遣隊には、オフサイトセンターのメンバーが県庁で使う部屋に、テレビ会議システムや机を入れる仕事があった。

副知事の内堀の先遣隊は、15日の午前0時10分に県庁に着いた。

先遣隊が県庁に到着したものの、オフサイトセンターに残ったメンバーは住民が全て避難したことを確認する必要がある。池田は再度全体会議を開いて強調した。

「我々だけ現場を離れるわけにはいかない。難破船の船長と同じで、我々はやはり、住民が全部出てもらってから」

先遣隊には加わらなかった住民安全班長の高田は、おかしなことに気づく。オフサイトセンターに残った人数が少ないのだ。

2012年2月27日の政府事故調に対する高田の証言。

「先遣隊が出ても100人くらいはオフサイトセンターに残るはずなのに、それが50人くらいになってしまった。相当数が逃げ出したように記憶している」

高田は双葉病院のことが気になった。15日午前7時30分ごろ、オフサイトセンターにいた警察官と共に双葉病院に向かった。

医師も看護師もいない中、寝たきりの患者は病院のホールのようなところに集められ、ベッドに横たわっていた。車椅子の患者は、車椅子に座ったままじっとしていた。

高田は午前9時に救援にきた自衛隊と共に、患者の搬送作業を手伝った。

難破船の船長「双葉病院はアピールしなかったんじゃない?」

撤退後のオフサイトセンター内=2014年6月20日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

15日午前11時26分、オフサイトセンターは全員が撤退した。自衛隊による双葉病院の救出が全て終わるのはそこから半日以上先、16日の夜中だ。

オフサイトセンターの総括責任者だった経産副大臣の池田は、双葉病院事件のことをどう考えているのだろう。

池田は、今は政界を引退している。取材の趣旨を説明し、東京都内で会った。

取材時間は2時間だったが、池田はその大半を他の話題に割き、双葉病院の話題は10分ほどだった。

移動中のバスの中で患者6人が死亡していることについて。

「双葉病院については、よく研究する必要があるね。僕は直接聞いてなかったけど、長距離の避難だったんでしょ、バスが酷かったんでしょ、何だったんだろうね」

「バスを動かす人とか、現場に普通の感覚の人がいれば長距離搬送しなくてもよかったんじゃない?」

双葉病院側の対応について。

病院の職員は、自衛隊や警察官、大熊町役場に何度も何度も助けを求めている。だが池田はいった。

「双葉病院はあまりアピールしなかったんじゃない?」

=つづく

(敬称略、肩書きは当時)

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