双葉病院 置き去り事件

6日間で25人死亡(12)

2021年03月23日16時00分 中川七海

元滋賀県知事の嘉田由紀子氏が旧オフサイトセンターを訪れた際に残っていた地図=2014年6月20日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

大地震が起きてから5日、3月16日になっても、双葉病院には35人の患者が取り残されていた。15日の救助にあたった自衛隊第12旅団衛生隊は、奥にある「療養棟」にも患者がいることに気づかぬまま「救助完了」を第12旅団の司令部に報告していたのだ。

15日午後、第12旅団衛生隊に、この日2度目の救助出動が命じられた。今度こそ、双葉病院の全員を救出しなければならない。衛生隊は、救急車7台とバス3台という大編成を組んだ。

16日午前0時過ぎ、第12旅団衛生隊は双葉病院に到着した。

点滴も電気も絶たれ(16日未明)

病院に着いたものの、第12旅団衛生隊は療養棟を見つけられないでいた。

3佐の隊長は病院へ来る前に、療養棟は病院の裏手にあると聞いていた。だが、昼間に救助にきた時とは違い雪が積もっている。療養棟に通じる通路が見つけられない。

何度も病院の前を行き来し、部下を偵察に行かせ、ようやく療養棟につながる道を見つけた。

療養棟には、確かに35人が取り残されていた。しかも、寝たきり患者ばかりだ。11日の地震で停電し暖房もない院内で、患者たちは毛布を被せられているだけだった。

院長の鈴木市郎が病院を離れてからは、食事や排泄の世話もされていない。点滴は15日の朝で切れていた。

声をかけても反応がない。救急車へ運ぶとき、一人の患者が「痛い」と声を上げたが、それ以外に患者の言葉を聞くことはなかった。

隊員たちは、今回は見落としがないよう慎重に行動した。療養棟にある全ての部屋を40人でくまなく探した。

中には、遺体もある。しかし、警察以外は遺体に触れることを許されていない。遺体はそのまま置いていった。

衛生隊は、患者35人を乗せて双葉病院を去った。

16日未明、これで全ての患者が救出された。1回目の12日から、救助活動は5回に及んだ。

しかし、1回目の時から、せっかく搬出された双葉病院の患者やドーヴィル双葉の入所者には、過酷な状況が待っていた。避難しようとした病院や公共施設は、原発近隣の人たちが先に避難していて、いっぱいだったのだ。

いくら頼めど断られ

※青い線をクリックすると各避難先へのルートが浮き上がります。  (C) Tansa 

1回目の12日午後2時。

国が手配したバスには、自力で歩ける双葉病院の患者209人が乗った。

ところが、避難先が見つからない。その日は、なんとか受け入れてくれた田村市にある中学校の体育館で一夜を過ごした。

翌日、付き添っていた30人ほどの看護師とともに、いわき開成病院へ運ばれた。だが、すでに満床。ベッドも医療器具も足りない。患者たちを床に雑魚寝させるしかなかった。とても治療ができる状態ではなく、医師たちは患者の転院先を確保するのに追われた。

2回目の14日午前10時30分。

第12旅団の部隊は、ドーヴィル双葉の入所者全98人と双葉病院の患者34人を送り出した。院長の鈴木は、一刻も早く治療を受けた方がいい重篤な患者を優先して選んだ。

しかし、自衛隊が持ってきたのは救急車ではなかった。観光バスのような座席に、普段は寝たきりの患者たちが乗せられた。点滴を抜き、2座席使って横たえるしかなかった。

この第2陣は、最も過酷な移動を強いられた。

10時間、230キロを超える移動の末、搬送先のいわきの高校についた頃には、みな衰弱していた。バスの中で座ったまま息を引き取った人、座席の間に挟まり逆さまの状態で死亡した人など、計6人が亡くなっていた。

脱水症や低体温症になりながらも一命を取り留めている患者たちは、体育館に寝かせられた。しかし、まともな医療設備はない。病院へ運ばれるまでに、そこから数日を要した。さらに8人が体育館で亡くなった。

3回目の15日午前11時、4回目の午後0時15分、5回目の16日未明に搬送された患者も、医療施設に行けずたらい回しにあう。

3回目と4回目の患者は、スクリーニングのため田村市総合体育館へ行ったが長蛇の列ができていた。職員に「聞いていないので対応できない」といわれ、二本松市でスクリーニングをした。その後、伊達市の公民館に避難した。全行程で100キロ以上の移動だ。伊達市の公民館に着くまでに2人が死亡した。

5回目の患者は、二本松市でスクリーニング。そこからふた手に分かれた。一つのグループは二本松市内の公園に避難し、もう一つは福島市内のスポーツ施設へ行った。双葉病院から二本松市内は70キロ、福島市内へはさらに30キロだ。5人が亡くなった。

福島県災害対策本部救援班の副班長は、双葉病院の患者の搬送先を手配する係だった。2013年1月8日の、福島地検からの聴取に対して、当時のことを振り返っている。

「私たちは、福島県内の病院に片っ端から電話をかけていき、救助した患者さんたちを受け入れてくれるようお願いしていったのですが、どこの病院も患者さんがいっぱいで受け入れてもらえませんでした」

「どこも受け入れてくれる病院が見つからなかったので、一時的な避難場所を確保しようと思い、福島県内の施設に電話をかけて探したのですが、受け入れてくれる施設は全く見つかりませんでした」

結局、16日までに25人が亡くなった。内訳は次の通りだ。

①救助を待っている間の双葉病院で4人

②2回目の救助の後、いわき市へ向かうバスの中で6人

③2回目の救助の後、いわき光洋高校の体育館で8人

④3回目と4回目の救助の後、伊達市へ向かうバスの中で2人

⑤5回目の救助の後、二本松市と福島市へ向かうバスの中で5人

犠牲者は45人に

いわき開成病院=2021年2月23日、中川七海撮影 (C)Tansa

避難が完了した3月16日以降も、約3カ月で20人が死亡した。何日間も置き去りにされた挙句、長距離の移動を強いられて衰弱したのだ。

双葉病院の患者、菅野健蔵もその1人。第2陣のバスで運び出されたが、2011年6月12日に亡くなった。

菅野の息子、正克は3月11日の地震発生直後、父が入院する双葉病院へ駆けつけた。

受付にいた女性に父の様子を尋ねた。

「安全なところへ移動したので大丈夫ですよ」

女性の言葉に、正克はほっとした。父に会うことなく帰宅し、家族と避難した。

だがそれから、父の行方が全く分からなかった。3週間後に再会した時は、変わり果てた姿だった。

=つづく

(敬称略、肩書きは当時)

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