ピックアップシリーズ

日本最大の未解決事件 最先端のプルトニウム科学者が失踪 北朝鮮による拉致の目的を追う

2023年05月15日16時54分 渡辺周

日本最大の失踪事件は、北朝鮮による日本人拉致です。日本政府は1977年から1983年に失踪した17人を拉致被害者と認定していますが、これは氷山の一角に過ぎません。警察が「拉致の可能性を排除できない」としてリストアップしているのは800人を超えます。日本最大の未解決事件と言ってもいいでしょう。

北朝鮮はなぜ、日本人を拉致したのでしょうか。

中学生の時に拉致された横田めぐみさんをはじめ、判明している拉致被害者はいずれも北朝鮮が犯罪行為というリスクを取ってまで欲した人物とは考えられません。

工作員に日本語や日本文化を教える目的であれば、1950年代から80年代に母国に帰還した在日朝鮮人で事は足ります。その数は9万3000人に上ります。日本人妻も1800人北朝鮮に渡っています。

謎を解く鍵が、旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)のプルトニウム製造係長・竹村達也さんの拉致疑惑です。竹村さんは当時、東アジアではごく少数しかいない核科学者でした。「原子力の父」と呼ばれるエンリコ・フェルミが作った研究所に留学経験があります。プルトニウムは核兵器に転用できます。キムイルソンら北朝鮮の指導者たちが、核兵器の開発のために竹村さんを拉致する動機は十分あります。

警察庁が公表した竹村達也さんの情報が掲載されたウェブページ 。職業は「公務員」となっており、旧動燃の科学者だったことは公表されていない

北朝鮮の拉致の真相は、自国に役立つ科学者や技術者を集めるためではないか。日本政府が認定している拉致被害者はむしろ例外ではないか。そういう視点で警察が捜査している失踪者リストを実際にチェックしていくと、多くの科学者や技術者がいることに気がつきます。

警察を含め、日本政府は核科学者が失踪するという重大な状況にもかかわらず弛緩しきっています。Tansaの報道シリーズ「消えた核科学者」は北朝鮮の犯行動機に焦点を当てるとともに、日本の国のあり方を問います。

動燃のプルトニウム製造係長、竹村達也氏が1972年に失踪した。その直後、刑事は動燃にきて「北に持って行かれたな」という。竹村の技術は北朝鮮の核兵器開発に利用されたのではないか。日本人拉致の真の目的とは何か。シリーズ「消えた核科学者」のこれまでの記事はこちらからお読みいただけます。

行方不明の科学者

2011 年の東日本大震災当時、私は朝日新聞の記者だった。

翌2012年夏、東日本大震災後の原発のあり方を取材するため、旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)の科学者のオフィスを訪れた。1960年代から動燃で原発の研究に打ち込んできた人物だ。 オフィスは東京の港区にあった。

インタビューを終え、ノートを閉じて席を立とうとした時、その科学者は私を呼び止めた。

「君は事件取材の経験はあるの?」

「殺人や汚職など事件取材の経験ならあります。何か事件があったんですか?」。私は尋ねた。

するとその科学者は「実は、相談がある」といい、「竹村達也」という人物の名前を挙げた。

「竹村さんはかつて私の上司で、動燃のプルトニウム製造係長を務めた人物なんだ。その竹村さんが1972年、茨城県東海村にある動燃の独身寮から突然、失踪したんだ」

「私より10歳くらい上だから、生きていたら80近くだね。彼の失踪事件が、時間が経った今でも気になって頭の中にこびりついている」

なんでそんな昔の話が気になるのだろう。そう尋ねると、科学者はいった。

「竹村さんは、北朝鮮に拉致されたかもしれないんだ」

プルトニウムは核兵器の原料になる。その製造に携わっていた人物がいなくなれば、核技術が漏洩するリスクが高まる。パキスタンのカーン博士による「核の闇市場」を通じ、北朝鮮に核技術が伝わったと2004年に発覚した時は、国際問題になった。科学者は続けた。

「私と同世代の動燃の科学者が同窓会をすると、いつもそのことが話題になる」

「彼の愛車が、自宅である独身寮の駐車場に停めたままになっていた。ナンバーは『3298』で『ミニクーパー』と読める。カローラなのにミニクーパーとは面白かったから、よく覚えているんだ」

失踪事件は珍しくない。例えば借金を理由に姿を消すことはよくある。しかし科学者ら同年代の仲間が、竹村の失踪を北朝鮮による拉致だと疑う理由があった。

竹村の失踪直後、その科学者は捜索に訪れた茨城県警の刑事から言われた「忘れられない一言」を聞いていた。

太平洋に面する旧動燃(現・日本原子力研究開発機構)の周辺には原発もある=2020年3月29日午後3時19分、茨城県東海村

「北に持っていかれたかもしれない」

竹村達也が失踪したのは1972年3月のことだ。

当時、竹村は動燃のプルトニウム製造係長として勤務しており、独身寮の駐車場には愛車のカローラが残された状態だった。

この頃、世界は冷戦真っ只中だった。東西両陣営は核兵器の開発にしのぎを削っており、米国はネバダ核実験場で地下核実験を頻繁に繰り返していた。

私に失踪事件のことを打ち明けた科学者は動燃時代、竹村の部下だった。竹村のかつての部下や同僚たちは、竹村の失踪をずっと気にかけてきたといい、北朝鮮による拉致を疑っていた。

竹村が失踪してほどなく、東海村にある動燃の研究所に、茨城県警勝田署(現在・ひたちなか署)の刑事が訪ねてきた。

その科学者は、動燃の管理部門から「刑事さんが話を聞きたいといっている」と呼ばれた。彼はプルトニウム燃料部で、竹村の部下として働いていたことがある。同じ独身寮にも住んでいた。研究所と道路を挟んで向かい側にある建物で「箕輪寮」という名だった。彼のほかにも竹村と関係がありそうな職員が呼ばれていた。

彼はプルトニウム燃料部の会議室に行った。

部屋には中年の男性刑事がいた。

「竹村さんが突然いなくなって、大阪の実家のお姉さんたちが捜している。何か知らないか」

竹村は大阪育ちだ。大阪での人間関係の中で何かあったのなら別だが、少なくとも彼の知る限りでは、竹村が失踪する理由は思い浮かばない。

お金を派手に使う様子はなかった。「畳の下に現金をため込んでるんじゃないか」と噂をしていたくらいだ。借金はしてないだろう。独身寮の住人はよく麻雀をしたが、それにも加わらない。竹村は結婚しておらず、女性に関する話も全くなかった。

竹村の周囲にいた人間には、竹村は真面目で仕事一筋に見えた。刑事の参考になる話はない。聞き取りはすぐに終わった。

彼は刑事に「何があったんですか」と聞いてみた。すると刑事は言った。

「北に持っていかれたかもしれない」

「北?」。彼には聞き慣れない言葉だった。

政府答弁の16年前に

私は、取材相手の科学者が覚えていたその言葉に驚いた。

その科学者は私にこう言った。

「当時は北朝鮮による拉致事件があるなんて、全く知られてない時代だよ。『北』ってなんのことだろうって気になったので、刑事さんの言葉は明確に覚えてるんだ」

竹村が失踪したのは1972年の3月。北朝鮮による拉致の問題が、国内で騒がれるようになる前のことだった。

メディアに「拉致」が登場するのは、竹村が失踪して8年後の1980年1月のこと。

サンケイ新聞が福井、新潟、鹿児島で男女のカップルが拉致された可能性があるとスクープした。「アベック3組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」という見出しだった。その中には、2002年に北朝鮮からの帰国を果たす蓮池薫さんと祐木子さんらの事件も含まれている。

だがこの報道の2ヶ月後の国会で、政府は北朝鮮による拉致には言及しなかった。警察庁刑事局長の中平和水は次のように答弁している。

「確かに大変同じ時期にそうした若い男女が約40日ぐらいの間にいなくなっておりますから、そういう点については確かに御不審をお持ちの向きもあろうかと思いますが、私ども純粋の捜査の立場で申し上げますと、いまのところ客観的な関連性というものは出てまいってない」

政府が北朝鮮による拉致を明確に認めたのは、それからしばらく経った8年後。1988年3月の国会だ。国家公安委員長だった梶山静六はこう答弁した。

「昭和53年(1978年)以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えております」

茨城県警の刑事が「北に持っていかれたな」といったのは1972年だ。政府が「北朝鮮による拉致」を持ち出す16年前に、警察は拉致を疑っていたことになる。

警察は、本当に1972年の時点で拉致を疑っていたのだろうか。プルトニウム製造に関わる核科学者が拉致されたということになれば、それは国の一大事だ。

私は、ある重大な事実を発見する。

警察庁リストに、あった

2012年の夏、私は竹村さんの名前をインターネットで検索したが、ヒットしなかった。

旧動燃の関係者に取材した。

関係者のほとんどは、竹村が失踪したことは知っているものの、茨城県警の刑事が口にした「北に持っていかれたな」の「北」が、何を指しているのかについては分からなかった。

公安部のキャリアだった警察OBにも尋ねた。「本当だったら大変なことだ」というだけだった。私はいったん、取材を中断した。

それから5年が経った。

2017年6月、私が会社を辞めてTansaを立ち上げ、これまでの取材でやり残していることをパソコンの中にある取材メモを見ながら整理している時だ。何気なく「竹村達也」の名前をインターネットで検索してみた。すると……、ヒットした。

警察庁のホームページに〈拉致の可能性を排除できない事案に係る方々〉という項目があり、そこに竹村の名前が掲載されていた。

茨城県警の刑事が口にした「北に持っていかれたな」の「北」とは、やはり北朝鮮のことだったのだ。

なぜ、2012年にはなかった竹村の情報が、その後警察のホームページにアップされていたのか。

警察庁が「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」をホームページにアップしたのは2013年6月のことだ。864人をリストアップし、家族の同意を得られた場合は、本人の写真と情報を掲載した。

2013年6月に開かれた公安委員会で、委員長の古屋圭司はその経緯を説明している。

「安倍内閣となって、拉致被害者としての認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国のために全力を尽くすという方針とされたところである」

「その一環として、警察においては、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案ついて、所用の捜査・調査を進めてきた」

「北朝鮮との関連性を示す情報を含め、広く国民からの情報提供を求めるため、御家族の同意が得られたものについては、事案の概要や関係者の写真等を都道府県警察のウェブサイトに公開することとした」

安倍政権は公開捜査に踏み切った。だがそれは、とても本気とは思えないものだった。

及び腰の公開捜査

竹村の名前を私が警察庁のホームページで見つけたのは、2017年6月のことだ。

大阪府警の〈拉致の可能性を排除できない事案に係る方々〉として、46人がいた。竹村はその中の一人だった。

竹村は大阪出身だ。失踪時に実家の家族が届け出たことから大阪府警の管轄になっているのだ。

氏名 竹村達也(たけむら たつや)

年齢 36歳(行方不明当時)

住所 茨城県那珂郡

職業 公務員

身体特徴等 身長165センチメートル 体重55キログラム

昭和47年(1972年)3月1日、茨城県下の勤務先を退職した後、行方不明となっています

警察のリストに竹村の名前があることを知らせるため、私はすぐに竹村の部下だった科学者に連絡を取り、会った。

東京都内の焼き鳥屋で席に着くや、彼は「ほら、やっぱりね」と言った。

「あの時、刑事さんは竹村さんのことを『北に持っていかれたな』っていったんだから。今でもはっきり覚えているよ」

彼はいつもより声が大きかった。隣の客と肩があたるような狭い店内だったので、私はハラハラした。

「それにしても」と、私は科学者に尋ねた。

「なぜ、住所が『茨城県那珂郡』までで、『東海村』と詳しい住所を書いてないんでしょう? なぜ職業を『動燃職員』とせず、『公務員』とかしか書かないんでしょう?」

科学者は今度は声を落とした。

「当時はアメリカとソ連だけではなく、各国が競争で核兵器の核開発をしていた時期だ。そんな時に、政府の管理下にある動燃で、プルトニウムの製造係長をやっていた人が北朝鮮に拉致されたかもしれないとしたら、大変なことだ。動燃と結びついてしまうから『東海村』とは書けないし、ましてや職業欄に『核科学者』なんて書けるわけないだろう」

安倍政権は拉致問題の解決を目指している。そんなときに、核科学者が拉致された可能性があるとなったら世間は騒然とする。二つの事情が重なって、中途半端な表現になったのではないか。私はそう考えた。

警察がホームページに情報をアップした際、国家公安委員長の古屋圭司は国家公安委員会でこう語っている。

「いろいろな反響もあると思われるので、このような一連の取組のなかで今回発表に至っているということを、改めて御認識いただきたいと思う」

本記事はシリーズ「消えた核科学者」を抜粋しています。続きはリンク先のページよりお読みいただけます。事実関係は取材時点で確認が取れたものです。

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