保身の代償 ~長崎高2いじめ自殺と大人たち~

「覆面審査委員会」を発足 –共同通信編(11)

2023年06月01日20時06分 中川七海

2022年12月6日、共同通信は記者・石川陽一の著作に対する審査委員会を立ち上げた。その日、千葉支局長・正村一朗から石川にメールで伝えられた。

著作が文藝春秋から発行されたのは11月10日。共同通信が、石川への2回の聴取を経て、1カ月足らずで審査委員会を設置したことになる。

共同通信は何を急いでいるのか。審査委員会とは一体何なのか。石川にはよくわからなかった。

左から、正村一朗千葉支局長、江頭建彦総務局長、石亀昌郎法務知財室長=Tansaが入手した共同通信社社報「KYODO NEWS No.863」(2020.9.25)より

委員長は江頭総務局長のはずだが・・・

正村は石川へのメールで、審査委員会について次のように説明している。

「審査委員会は問題の経過や事実関係の解明、責任の所在や勘案すべき状況の調査などを審査すると社内規定で定められています」

だがこれでは説明になっていない。何を「問題」の対象とするのか、審査した結果を何の目的に使うのかが不明だ。

そもそも不審なのは、審査委員会の責任者と委員が誰なのかについてすら、示されていないことだ。

石川は正村に、審査委員会の設置根拠が社内規定の何条にあたるのかや、委員会の責任者と委員全員の氏名と役職をメールで尋ねた。

回答は審査委員会から、正村を窓口にして届いた。「職員就業規則第72条と審査委員会規定」に基づいていると書いてあったが、委員長と委員全員の氏名・役職については以下の回答だった。

「従来から明らかにしていません」

審査対象の石川を容疑者のように扱っておきながら、取り調べる側は名前も明かさないなどということがあるだろうか? 石川は、規定を引っ張り出して調べた。

規定では、総務局長を委員長とする委員会のメンバーが定められていた。

総務局長

当該局・センター長

当該局次長・副センター長

人事部長

所属長

担当責任者

規定に沿えば、委員長は総務局長の江頭建彦だ。

千葉支局長の正村一朗や、2回目の聴取を担った法務知財室長・石亀昌郎も含まれていることになる。

「若い人たちが夢を持てる職場づくりに努めたい」

自らは匿名のまま、組織の威を借りる共同通信の幹部とはどのような人物なのか。

私は、入手した共同通信の社報をもとに、総務局長の江頭、千葉支局長の正村、法務知財室長の石亀を調べた。

総務局長の江頭は、科学部長や出稿部長を務めた後、一度総務部門を経験し、名古屋支社長になった。名古屋支社長就任にあたり、2020年9月25日号の社報で、地方紙などからなる加盟社の重要性を説いている。

今回の異動を申し渡された時、自分は取材編集現場や加盟社・契約社の皆さんを強く意識する感覚が衰えてはいないかと不安を覚えた。支社局は13年ぶり。名古屋支社は管内も含め初めてだ。「気を引き締めて」くらいではまったく足りない

名古屋を離任し、総務局長に着任する際は加盟社との親密ぶりをアピールしている(社報2022年4月25日号) 。

単身赴任中の家財道具の処理に困っていたら、加盟社の方が全部引き取ってくれ救われた。社会人となり1人暮らしを始めるお子さんが使ってくれる。こちらもいい循環。自分にとっては急な異動だったが、春の引っ越しも悪くない。

正村一朗は、1992年に共同通信に入社した。他社からの転職だった。現在の千葉支局長には、定年後に就任した。定年に当たって綴った社報(2020年12月25日号)には、共同通信への入社を決めた時のエピソードがあった。若い頃は情熱ある記者だったようだ。一部を抜粋する。

新聞社の記者9年目だった1992年春、共同通信社の入社試験を受けた。数人の部長による面接。真ん中に座る面接官は足を組み、見下したような表情で質問してきた。「で、何を書いたの」。カチンときた。横柄な態度の記者は得てして出来が悪い。こんな人が部長か。あんたに言われたくないよ。胸の内でつぶやきながら「別に」と答えた。

 

<中略>

 

支局時代にお世話になった元上司に電話をかけ、相談した。元上司は言っ た。「共同に行け。やってみろ」。その言葉で腹を決めた。役員や局長らによる最終面接。私は自分の書いた何本かの記事をコピーし、面接官に配って笑顔を振りまき、懸命にアピールした。右端に座る人事部長はあきれていた。

 

それから28年。転職して良かったのかと自問自答したことは何度もあった。だが、思い通りにいかないのは会社のせいではない。自分の能力不足、努力不足なのだ。それを教えてくれた年月と共同通信に感謝したい。

石亀昌郎は、1984年入社。初任地は福井だった。その後、社会部での検察担当などを経て、仙台支社長に。2021年9月、定年を迎えるに当たって書いた社報(2021年9月24日号)では、充実した記者人生を振り返り、若手に次を託すと語っている。

初任地・福井駅に着いた時の「ふくいー、ふくいー」という構内アナウンスが、今も耳に残っている。1人も知人が居ないここから記者人生が始まる。

 

<中略>

 

社会部では、狭く窓もない裁判所クラブに計7年詰めた。検察担当のころは東京佐川急便事件やゼネコン汚職などに追われ、抜かれることも多かったが、おかげで仕事への覚悟ができた気がする。

 

<中略>

 

転勤が多く慌ただしかったが、仲間に恵まれ、楽しい会社人生だった。生まれ変わってもまた記者になるかと聞かれたら「消去法でたぶんそうなる」と答えよう。当面は引き続き、若い人たちが夢を持てる職場づくりに努めたい。

=つづく

(敬称略)

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