「特攻隊員は英雄」「次に戦うのは私たち」超国家主義に向かう日本社会へ/特攻隊員が書き遺した「恐ろしき哉、浅ましき哉」
2025年08月15日 18時00分 Tansa編集部

特攻隊員の遺影が並ぶ、知覧特攻平和会館の展示=2025年8月13日、鹿児島県南九州市で千金良航太郎撮影
80年前の8月15日、昭和天皇がラジオで戦争をやめると国民に告げた。
8月6日に広島、9日には長崎に米軍が原爆を投下した後のことだった。
日本政府と軍部は、降伏して戦争を終わらせることを決断できずにいた。中立条約を結んでいたソ連による仲介に期待し、より有利な形で戦争を終わらせようとしていたからだ。しかし頼みのソ連は8日、仲介どころか日本に宣戦布告。満州に攻め入ってきた。
日本の為政者たちの甘い判断が、国内外に甚大な犠牲をもたらした。国を破滅にまで追い込んだ。
戦況が悪化すると、若者を特攻隊員として送り出した。10代の少年も多かった。6300人を超える隊員が命を落とした。最終的には「1億総特攻」を掲げ、国民全員に、国のために死ぬ覚悟を求めた。
国民は国家のためにあるのでない。国家が国民のためにある。若者の命を国家に差し出させるようなことは二度としないーー。
主権在民と基本的人権の尊重を誓い、戦後の日本は再出発した。
ところが今、その誓いが揺らいでいる。
象徴的なのは、参政党に対する国民の支持だ。参院選では比例代表で、742万5053人が参政党に投票した。得票率では自民党、国民民主党に次ぐ3番目だ。
参政党は特攻隊を「英雄」と捉え、こう呼びかけた。
「これ以上、日本が壊される前に次に戦うのは、私たち一般の国民の番だ」
戦時中の「1億総特攻」に通じる。実際、神谷宗幣代表は、80年前の戦争についてこう述べている。
「日本は原爆投下後も戦争を継続可能だった」
日本社会は、戦時中の「超国家主義」に回帰しつつある。それは、同調圧力に支配され、為政者と国民が一体となって熱狂する社会だ。破滅するまで熱は冷めない。
特攻隊員は「英雄」ではない。為政者と、同調圧力で熱狂した社会による「犠牲者」だ。英雄視して過去を美化するのは、特攻隊員を送り出した側の責任逃れでしかない。
特攻隊員のような死に方はもう誰にもさせない。そのことでしか、現代を生きる私たちは彼らの死に報いることができない。
鳥濱トメの驚き

特攻隊員が数多く訪れた富屋食堂を復元した資料館「ホタル館 富屋食堂」=2025年8月13日、鹿児島県南九州市で千金良航太郎撮影
鹿児島県の知覧基地から出撃した特攻隊員たちが、「お母さん」と慕った人がいる。鳥濱トメ。知覧で「富屋食堂」を営み、隊員たちと親交があった。
木造2階建ての富屋食堂は、当時の姿を復元し資料館になっている。食堂に集った特攻隊員たちの写真や手記が展示されている。
終戦の日が間近の8月13日も、親子連れら多くの人が訪れていた。資料館に備え付けのノートには、訪問者の感想が記されている。
「感動しました」
「特攻隊員の方々のおかげで、今の平和な日本があります」
「日本を取り戻します」
トメは1992年に89歳で亡くなった。資料館には生前のインタビュー動画が残されている。彼女は、ある特攻隊員の言葉に驚いたと語っている。
長野県出身の上原良司。慶應義塾大学経済学部で学んでいたが、学徒出陣で特攻隊員となった。
髭がボーボーの良司がある日、富屋食堂でトメに言った。
「日本は負けるよ」
トメはびっくりした。そんなこと言うのは、特攻隊員の中で良司だけだったからだ。
「日本は勝てない」と言っていることを憲兵隊に知られたら大変だ。「そんな事を言ったら憲兵隊に連れていかれるよ」と言ったが、良司は意に介さない。
「いいんだよ、僕はもう死ぬ身だから」
「今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」
なぜ上原良司は「日本は負けるよ」と言ったのか。
良司の妹、清子が遺した手帳に手がかりがある。
清子は1945年5月1日、東京の調布飛行場にいた良司に会いに行った。その際、清子は特攻隊員同士の会話が耳に入った。気になる内容だったので、手帳にメモした。
「あァ、だまされちゃった、特操なんて名許り良くてさ、今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」
「向ふの奴ら何と思ふかな」
「ホラ今日も馬鹿共が来た、こんな所までわざわざ自殺しに来るとは真抜けな奴だと笑ふだらうよ」
清子が面会した9日後、良司は出撃前夜に手記をしたためた。従軍記者の高木俊朗に託し、高木が良司の実家を訪れて遺族に届けた。終戦前のことだ。手記には、良司の「自由主義者」としての信念が綴られていた。
思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは、自由主義者といわれるかも知れませんが、自由の勝利は明白な事だと思います。
人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つ(中略)ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らが言うごとく自殺者とでも言いましょうか。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で
特攻作戦は、どう始まったのか
日本は1941年12月、ハワイの真珠湾を奇襲し戦争を始めた。だが半年後の1942年6月にミッドウェー海戦で敗れ、形勢が逆転する。
戦況が悪化する中、海軍で特攻作戦が立案された。1943年6月、城英一郎大佐が「体当たり攻撃」を大西瀧治郎中将に進言。大西中将は認めなかったものの、その後も海軍内では進言が相次いだ。
1944年10月、米軍がフィリピンのレイテ島に上陸。海軍はついに初の特攻隊「神風(しんぷう)特攻隊」を編成し、作戦を実行する。指揮したのは大西中将だ。
1945年3月に米軍が沖縄に上陸してからは、陸軍も特攻作戦を本格化させる。知覧の基地から出撃したのは、陸軍の特攻隊だ。

「見事ないい若者を特攻隊で殺した」
元特攻隊員の河崎広光は戦後、知覧で従軍記者だった高木俊朗に、特攻作戦の矛盾を語っている。
隊員には「体当たりをする必要があるか」という割り切れない思いが残っていた。爆弾さえ命中させればよいはずなのに、操縦者を犠牲にする必要があるのか。体当たりは一人が一度しかできないが、爆弾なら何度でもできる。しかも操縦者が足りなくなっている。飛行機も消耗する。戦法として、矛盾としか考えられないーー
だが、合理的な考え方は無視された。機体も旧式。ほとんどの特攻機が目的を果たすことはできなかった。米軍に撃ち落とされた。
大西中将は自ら、特攻を「統率の外道」と呼んだ。1945年8月16日、割腹自殺した。最後の夜、友人にこんなことを言った。
「いかに国家のためとか、敗けられぬと考えたにせよ、見事ないい若者を特攻隊で殺して、自分ながら救われないね。無限地獄に堕ちるさ」
遺書には「吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」と記した。

知覧基地で出撃前に最後の食事をとる特攻隊員たち=知覧特攻平和会館提供
「崇高の極致」と煽った新聞
権力の暴走を止めるのは本来、ジャーナリズムの役割だ。
しかし、当時のメディアは特攻作戦を煽り、世論を熱狂させた。
初の特攻隊「神風(しんぷう)特攻隊」は1944年10月25日、フィリピンから出撃した。朝日新聞は10月29日に1面トップで報じた。
見出しは「神鷲の忠烈 萬世に燦たり」。特攻作戦を「崇高極致の戰法」と絶賛し、1面に次のような社説まで掲載している。
「神風特別攻撃隊敷島隊員に対する聯合艦隊司令長官の布告に接しては、われら万感切々として迫り、この神鷲忠烈の英霊に合掌、拝跪すべきを知るのみ」
「それは、必死必中の、さらにまた必殺の戰闘精神である。征戰は、これをもつて勝ち抜く。神州はこれによって護持される」
「生還を期せざる烈士の高風を仰ぎたい」
他のメディアも特攻隊員を賛美した。国民は「軍神」として崇めるようになっていった。

特攻隊を称える1944年当時の朝日新聞
帰還したら「貴様らは人間のクズだ」
国民は特攻隊員を「軍神」と崇めても、生身の人間だ。10代の少年も多い。軍は隊員に、陸軍が発行した「特攻隊員用極秘操縦マニュアル」を渡して、引き締めを図った。例えば次のようなことが書かれている。
・人生二十五年、最後ノ力ダ 神力ヲ出セ
・眼ナド ツムツテ 目標ニ逃ゲラレテハナラヌ 眼ハ開ケタママダ
・「必殺」ノ喚声ヲ挙ゲテ撲リ込メ
出撃したものの、機体の故障などで目的地にたどり着かずに帰ってきた隊員もいた。彼らには「精神改造」が待っていた。
福岡女学院の寄宿舎を接収した「振武寮(しんぶりょう)」では、帰還した特攻隊員を隔離していた。軍は、特攻隊員を軍神と崇めている市民の目を気にした。これから出撃する隊員が、帰還者を見て覚悟が揺らぐのも懸念した。
上官は毎朝6時半にやってきて、「生きて帰ったお前たちには、飯を食べる資格がない!」「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ」と竹刀で殴った。反省文を書かされたり、軍人勅諭を正座で書き写させられたりした。ピストルで自殺する隊員まで出た。
特攻隊員の家族や恋人への手紙は、検閲された。大切な人を思う気持ち、天皇への忠誠心や特攻隊員としての栄誉を綴る言葉が並んだが、理不尽な作戦への批判は書くことができなかった。
それでも、知人などを通じて届けられた手紙や、戦後に収集された日記などには特攻隊員の本音が綴られているものもある。
1945年4月12日に沖縄で戦死した長谷川信は、その3カ月前の日記で書いている。
人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐ろしき哉、浅ましき哉
人類よ、猿の親類よ。
「1億総特攻」の断末魔
特攻隊員がいくら出撃しても、戦況は悪化するばかり。1945年6月23日には、沖縄での組織的戦闘が終了した。その日、義勇兵役法が公布された。
義勇兵役法は、15歳から60歳の男性と17歳から40歳の女性を「国民義勇戦闘隊」に動員。「1億総特攻」をスローガンに引き続き米軍と戦うことを目指した。
大本営は、国民義勇戦闘隊のマニュアル「国民抗戦必携」を作った。荒唐無稽なものだった。
例えば「われらの必殺戰法」では、「挺身斬込みこそ皇軍が世界に誇る戰闘様式の精華だ」と書いて、次のように指南している。
「上背のあるヤンキーともに對する白兵格闘の要領は突きが一番だ」
「刀や槍がなくとも鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口いづれも立派な奇襲兵器だ」
「格闘になつたら上から襲いかかる敵に對して身を沈めて水落を突いたり睾丸を蹴上げたりする」
「柔道、唐手などわが國獨持(どくじ)の體當(たいあ)たり武道を發揮するのだ」
「以上いずれも捨身で踊りかかってこそ勝利がある」
終戦は8月15日。義勇兵役法が公布されてから、2カ月も経っていなかった。
侵略地・植民地での加害も検証していきます
日本による戦争では、侵略先の国や植民地でも多くの犠牲者を出しました。
今、日本社会には歴史の歪曲や、外国人に対する排外主義が蔓延しています。Tansaはそうした動きに抗し、国内の戦争被害とともに、日本の過去の加害についても検証していきます。取材を尽くし、随時掲載します。
参考文献、施設等
『特別攻撃隊全史』(公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会)
『魂魄の記録』(知覧特攻平和会館)
『新版 有明山に日かげさし』(上原良司の灯を守る会)
『新版 きけ わだつみのこえ』(岩波書店)
『特攻基地 知覧』(高木俊朗 KADOKAWA)
『特攻とは何か』(森史朗 文藝春秋)
『「国民抗戦必携」「国民築城必携」「国土決戦教令」』(藤田昌雄、佐山二郎 潮書房光人新社)
『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(大貫健一郎、渡辺考 朝日新聞出版)
『陸軍特攻・振武寮: 生還者の収容施設』(林えいだい 東方出版)
『戦史叢書』(防衛研究所)
福澤諭吉記念慶應義塾史展示館「ある一家の近代と戦争」(東京都)
わだつみのこえ記念館(東京都)
知覧特攻平和会館(鹿児島県)
ホタル館 富屋食堂(鹿児島県)
『参政党ドリル』(神谷宗幣 青林堂)
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