双葉病院 置き去り事件

自衛隊が生んだ27時間の空白(2)

2021年03月09日14時46分 中川七海

福島第一原発=2012年3月18日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

2011年3月12日午後2時、大熊町長の渡辺利綱は、双葉病院とドーヴィル双葉に227人が取り残されていることを知らないまま、「避難完了」として町を出た。

この時から14日未明まで残った施設関係者は、双葉病院長の鈴木市郎、ドーヴィル双葉の施設長、事務課長の3人だ。3人は患者や入居者のケアをしながら、救助を求めて大熊町の近隣を駆け回った。

防護服がない自衛隊、退却(12日午後2時~336分)

町長の渡辺は12日に田村市へ避難する前、自衛隊のトラックが双葉病院に向かったと語る。だが自衛隊は12日には双葉病院で救助活動をしていない。渡辺が見たという自衛隊のトラックはどこの部隊のものか、いまだに分からない。

12日午後3時、渡辺が救助を頼んだのとは別の自衛隊部隊が双葉病院に向かった。郡山にいた第12旅団の部隊だ。12旅団は、栃木、群馬、長野、新潟の4県を管轄する。大地震の後に郡山駐屯地へと移動し、そこで待機していた。

12旅団はなぜ双葉に向かったのか。

12日昼過ぎ、12旅団の司令部から出動命令が出たためだ。

「双葉地区に入って、取り残されている医療施設の入所者を避難させよ」

この命令が、町長の渡辺の依頼と関係したものかどうかは分かっていない。

郡山から双葉病院までは東へ約80キロある。地震の影響で道が悪く、土砂崩れもある。大型バス3台も用意はしていたが、大型車は難しいと判断してマイクロバス6台のみで出動した。

国道288号の山道を走った。途中でラジオが入らなくなった。山を超えたあたりでようやく電波が入る。ラジオからニュースが飛び込んできた。

「午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発」

隊長は焦った。部隊が放射線防護用の装備を全く整えていなかったからだ。

この時のことを振り返り、隊長は検察官の聴取(2012年12月10日)に次のように答えている。

「部下の命を預かる隊長として、一旦、郡山駐屯地に帰還し、福島第一原発の状況を確認した上で、放射線防護用の装備を整えるべきだと判断しました」

自衛隊第12旅団の救援隊はそこから引き返し、午後9時に郡山駐屯地に帰還した。

何度頼んでも・・・(12日午後3時36分〜13日朝)

双葉病院から500メートルのドーヴィル双葉=2021年3月2日、渡辺周撮影 (C)Tansa

その頃、院長の鈴木は困り果てていた。12日午後2時に患者と職員を乗せたバスが出た後、すぐに次のバスが来るものだとばかり思っていた。それがちっとも来ない。双葉病院には患者129人と鈴木、ドーヴィル双葉には入居者98人と施設長、事務課長の2人が残っている。

鈴木は車で5分の役場へ向かった。だが役場には誰もおらず、がらんとしていた。そのうちだれか戻るかもしれないと思って出直したが、結果は同じだった。

ドーヴィル双葉の施設長も、後続のバスが残された入居者を迎えに来ると思っていた。この日の午前中に大熊町の職員がドーヴィルを訪れた際、ドーヴィルの入所者数と寝たきりの人の数をその職員に直接伝えたからだ。

施設長は12日午後7時ごろ、事務課長と隣町の双葉町に出かけた。「せんだん」という介護施設があり、救助活動が行われているかもしれないと考えたからだ。そうならば、ドーヴィルと双葉病院にも救助に来るよう頼むことができる。

予想は当たった。自衛隊が「せんだん」に来ており、入所者を避難させていた。

施設長は迷彩服の自衛官に、自分たちのところにも救援に来るよう頼んだ。その自衛官はいった。

「分かりました。後で向かいます」

3時間後の12日午後10時過ぎ、自衛隊が幌付きトラックでドーヴィルにやってきた。「せんだんに行ったのが功を奏した」。施設長はそう思った。

だがドーヴィルに来た幌付きトラックは、せんだんの救助に当たったトラックとは全く違うものだった。車高が高い上に、荷台の床の位置も施設長の頭より高い。

「この車両では、とても寝たきりの患者さんを乗せることはできない。自力歩行ができる患者でも、荷台に乗せることすら難しい。自衛隊は郡山まで運ぶと言っているが、どんなに早くても2時間はかかる。無理だ」

医師でもある施設長はそう判断して、このトラックによる救助は断念した。

施設長はこの自衛官と、一緒にきていた警察官を連れて双葉病院に行った。救助は無理でも、双葉病院の状況を把握してもらおうと考えた。

病院の玄関前に着くと、院長の鈴木がやってきた。鈴木は川内村の親戚の家から、ろうそくを調達してきた帰りだった。

鈴木は懇願する。

「今すぐ命を落とすような人ばかりです。早急に救助をお願いします」

だが、自衛官は答えた。

「今日は無理です。明日の朝に救助に来ます」

その救助を待つしかない。13日の朝にかけて、鈴木と施設長たちは、不眠不休で患者の点滴の調整や痰の吸引を続けた。

院内で3人が絶命(13日朝〜14日未明)

地震によって起伏した大熊町の道路=2014年3月27日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

そして13日朝。救助はこなかった。

助けを求めるため、鈴木は車で病院を出た。すると、川内村に向かうトンネルを抜けたところで、消防隊に出会った。ほっとした。鈴木は頼んだ。

「双葉病院に患者が残されています。警察や自衛隊にこのことを伝えてもらえませんか」

鈴木は病院に戻って救助を待った。しかし、やはり助けは来ない。

13日午後、再び車で出かけた。

今度はパトカーに遭遇した。鈴木が車を降りようとしたら、タイベックスーツ姿の警察官は叫んだ。

「降りるな!車に乗って窓を開けるな!」

鈴木は、原発が深刻な事態になっていると感じた。車の窓を閉めたまま、その警察官に双葉病院に救助に来るよう伝えた。

それでも、誰も助けに来なかった。

自衛隊が再び動き始めたのは13日の夕方だ。第12旅団司令部から、郡山で待機中の部隊に命令が下ったのだ。

「現在、タイベックスーツを調達中である。タイベックスーツが届き次第、双葉病院の救助に向かえ」

しかし、タイベックスーツはなかなか届かない。部隊が郡山を出発したのは、14日午前0時。水素爆発の後、タイベックスーツがなくて、12日午後9時ごろに郡山に戻って来てから27時間が経っていた。

双葉病院では14日未明までに、3人の患者が死亡した。

=つづく

(敬称略、肩書きは当時)

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