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【メッセージ/ゲスト講師・依光隆明さん】教育機能を失った新聞社の危機 記者を志す人へ

また1人、有為の若い記者がジャーナリズムの戦列から離れた。学生時代の彼は自信たっぷりでやる気満々。文章を書かせても達者だった。その彼が心ならずも新聞記者を辞め、東北の故郷に帰る。なぜそうなったのか。そこには新聞社の教育機能喪失という深刻な現実があるように思えてならない。

依光隆明(よりみつ・たかあき)

1981年高知新聞に入社し、社会部長など。2008年12月全国紙に移り、特別報道部長などを経て支局長。2001年高知県庁の不正融資を暴いた取材班代表として新聞協会賞。2012年福島第一原発事故に視点を置いた連載企画の取材班代表の1人として再び同賞。共著に『黒い陽炎―県闇融資究明の記録』(リーダーズノート)、『レクチャー現代ジャーナリズム』(早稲田大学出版部)など。

「まずは新聞社で」が崩れた

ジャーナリストを志す大学生に会ったとき、これまでは「まずはどこか新聞社に入った方がいい」と薦めてきた。そこそこの給料をもらいながら基本動作の修業ができるからだ。新聞記者は取材相手からたくさん話を聞き、大量の情報の中から読者に伝えるべき要点を見抜かなければならない。その上で分かりやすく、素早く、コンパクトな原稿にする必要がある。最初からできる記者なんてほとんどいないのだが、かつての新聞社には記者を育てる能力があった。興味のあることは自由に取材させてくれたし、的確に助言し、惨憺たる原稿を時に怒りながら丹念に直してくれる先輩や上司がいた。彼らに寄り添ってもらうことで、できの悪い新人記者がいつの間にか一人前に育っていた。それが新聞社というものだった。

そんな構図が崩れ始めたのはそうとう前だったように思う。しかしそれでも新聞社に入った方がいいと信じてきた。後輩を育てる余裕がない(目先の仕事でいっぱいいっぱい)先輩に当たる危険性はあるが、新聞社ぐるみでいつかは記者として一人前にしてくれる。給料が少なくなってもそのメリットは代えがたいのだ、と。

そこに疑問が生じたのはここ数年のことだ。一人前になる前に辞める記者が多いのである。新聞社に言わせると「最近の若い者は」となるのだろう。が、おそらく違う。なぜなら辞めた彼らにやる気がなかったわけではないからだ。やる気ある若者が辞めざるを得なかったということは、抱えた組織に問題があると思った方がいい。

実は痛い思い出がある。

高知新聞の社会部にいた30余年前の話である。女性記者の後輩がいた。筆者とは比較にならない優秀な新聞記者だった。いつも机の上にはがきを置いていて、取材した相手にすぐ礼状を出していた。字はうまいし、文は早くて達筆。本業の記事にしても、当時の部長が「直すところがない」と漏らしたことを覚えている。入社早々、「女性初の社会部長になる」とも言われていた。

その彼女が唐突に記者を辞めた。朝の6時ごろだったと記憶している。私の家の固定電話が鳴った。眠い目をこすりながら出ると、彼女だった。ことさら明るい声が今も脳裏に残っている。「私、会社辞めましたから」。混乱した頭で聞き返した。「え? どうしたって? 」「東京に行きます」。ますます混乱した頭で聞いた。「いまどこにいる? 」。「高知駅です」「ちょっとそこにいろ。いま行くから」「あと5分で列車が出ます」。電話を切ったあと、会社に行った。私の隣が彼女の机だったが、見事に片付けられていた。部長の机の引き出しを開けると、辞表が入っていた。

のちに彼女から聞いた退社理由がさらにショックだった。彼女はこんなふうに言った。「1週間コマネズミのように働いて、振り返ると何も残っていない、そんな日々に耐えられなかった」。達成感のない仕事ばかりさせていたということだ。

猛烈に反省した。優秀な人ほど達成感のラインは高い。そのような人に上司や先輩がやりがいある仕事を与えてこそ組織の力は高まる。組織としてそれができていなかったから、彼女は20代で新聞記者を辞めざるを得なかった。

部数減のしわ寄せが若手記者に

若い記者が辞めるたび、彼女の言葉を思い出してきた。達成感ある仕事をさせてもらっていたのだろうか、仕事に希望が持てないから辞めたのではないか、と。しかし一人前になって辞めるのならまだいい。ここ数年の深刻さは、少なからぬ新聞社が若手を一人前に育てる能力を喪失していることだ。

筆者が知る限り、いま全国紙、通信社を中心に多くの社が記者の総数を減らしている。ところが仕事の方は簡単に減らせはしない。

身近な一例として私のことを挙げると、全国紙の支局(昔の通信局。記者一人)に赴任した2017年にお隣の支局がなくなった。私は従来の支局管内プラスお隣の支局管内の半分を受け持った。昨年末、近くの支局の記者が1人に減った。2017年にはこの支局に3人いたので、約4年で3分の1になったことになる。その余波で私の受け持ちエリアがまた増えた。受け持ちエリアが広がった分、仕事の密度が減ったかといえばそうではない。追い立てられる仕事は選挙や災害、大事件である。分かりやすいのが選挙で、受け持ち自治体数が2倍になれば2倍忙しい。「その分、県版紙面を縮小したじゃないか」という声を聞いたことがあるが、とんでもない。仮に紙面が半分になったら記事を2倍コンパクトにしないといけない。取材する量は変わらないのだから、むしろ労力は増すのである。

一人支局にいる私などまだましな方で、県庁所在地にある総局の合理化はさらに進んでいる。総局に人材を供給する本社の合理化はさらに激しいので、そもそも総局に人材を供給する体制も危うい。矛盾が集中するのが新人記者をめぐる環境である。全国紙に入った記者はまず地方で修業するのだが、新人記者を一人前に育てる余裕が急速に落ちているのだ。全国紙だけではない。業界の仲間や後輩記者に聞く限り、地方紙でも同様の現象が起きている。冒頭に書いた記者も地方紙(いわゆる有力地方紙)で挫折した。

先輩や上司に恵まれたラッキーな新人記者もいる。が、アンラッキーな新人記者が増えているように思えてしようがない。背景に新聞社の部数減・売り上げ減がある以上、属人的な問題で解決する問題ではない。ではどうすればいいか。

これまで新聞社は新聞社内で教育を完結してきた。先に書いたように、相応の教育機能を持っていたからだ。ただし多くの場合、それはシステム化されたものではない。先輩記者について修業することで一人前になっていたということである。前述したように、その機能が危うくなっている。いま大切なのは、その機能が失われつつある現実を正視することだ。どうするか。答えは簡単ではない。

個人的には二つのことを考えている。

一つは横のつながりを作ることである。筆者はかつて早稲田大のジャーナリズム研究所(花田達朗所長)でJカフェという試みをしていたことがある。花田教授が発想した企画なのだが、要するに横のネットワーク作りである。新聞、テレビ、通信社の若い記者を集め、2日間の日程で開いていた。大したことはしていなくて、研究所に集うベテラン記者を交えて近況や悩みを語り合うのだ。もちろん夜は一献酌み交わす。横のネットワークの必要性はそこで痛感した。悩みを抱えた者が口を開くことで、驚くほど似た状況に自分がいることが分かる。それだけでも状況を客観的につかむことができるし、それを乗り越えた者からヒントをもらうこともできる。自分だけではないと分かるだけでも精神的な助けになったように見えた。

もう一つは新聞社以外の場でスキルを高め、一人前になることである。筆者は法政大の藤代裕之教授が主宰するJCEJ(日本ジャーナリスト教育センター)のジャーナリストキャンプで何年かデスクを務めたことがある。これは新聞記者というよりもフリーやネット系の記者を主対象にしていたが、新聞社や通信社の記者も数多く参加していた。キャンプ期間は3日間。濃密に取材し、完成した原稿はネットメディアに掲載する。理屈ではなく実践と経験でスキルアップを図るプログラムだった。そこでヒントをつかみ、新聞社やネットメディアの現場で活躍する者は少なくない。

Tansa Schoolという選択

Jカフェは2018年を最後に開かれていないし、ジャーナリストキャンプも2016年を最後に開かれていない(と思う)。そんな中、筆者が希望を託すのはこのTansaの探査報道ジャーナリスト養成学校(Tansa School)である。

初回となった昨年の2コースは私も協力した。受講生の中心は新聞記者あるいは新聞社を辞めたネットメディアの一線記者だった。Tansaにその意図があったか否かはともかく、新聞社の教育機能を補完する役割を果たしているように見えた。

若い記者はぜひ受講を考えてほしいのだが、さらに考えてほしいのは新聞社側である。「うちの教育機能は万全だ」と言える新聞社がどのくらいあるのだろう。いや、一つでも存在するのだろうか。教育機能の低下を直視するなら、Tansaのような習熟した民間組織に託す手がある。

Tansaは発展途上である。必然的にプログラムも成長途上にある。これからはTansaのような組織に新聞社が注文を与え、ともに教育プログラムを作りあげることも必要ではないだろうか。時代はそちらに向いている。

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