Tansaユース合宿

学校の「こうあるべき」が壊すもの(3)/ユース合宿作品紹介(4)

2023年09月20日21時36分 Tansa編集部

叡啓大学3年の成毛侑瑠樺(なるげ・うるか)さんによる「学校の『こうあるべき』が壊すもの」の最終回です。教師たちの言動に苦しめられた生徒の話から一転、苦しめた側の教師を取材しました。

今も覚えているビンタの手の痛み

学校で「こうあるべき」という価値観を押しつけられた生徒が、いかに苦しむか。1回目では私の体験を綴り、2回目では私と同年代のSさんを取材して報じた。Sさんは小学校の教師を思い起こし「謝ってほしい、何回でも謝ってほしい、毎日死ねって思ってる、一番嫌い、ここから私が壊れ始めた」と語った。

では学校の価値観を押し付ける側は、どのような心境でいるのか。

私は、60代の教員Kさんを取材した。Kさんは20代の頃に5年間勤めた私立高校で体罰を行っていた。

「自分は体罰をしていた人間のひとりだから、あとのために役に立つのであれば全てお話します」

Kさんはそう言って、胸の内を明かした。

Kさんが初めて体罰をしたのは、教員になって1年目の後半のことだ。

ある日、23歳のKさんは、掃除時間に自身が担任の教室で生徒の様子をみていた。掃除をせずに遊んでいるひとりの生徒が目についた。掃除をするように声をかけたが、何度言っても掃除を始める気配がない。

Kさんはカチンときた。ついに、教室の窓際でその生徒をビンタした。他の生徒4〜5人がじっとこちらを見ていた。手の痛みは今もはっきり覚えている。

この時を境に、Kさんは体罰を頻繁に行うようになった。生徒が座る机を下から蹴り上げることもあった。

体罰が快感に

Kさんは、大学で体罰はダメだと学んだ。自分もそう思っていた。

だが、教師としてのスタートを切った高校では、他の先輩教員たちが当たり前のように体罰をしていた。

「先輩たちがやっていたので、そうするものだと思っていた。生徒のためなんだと思っていた」

Kさんがこの高校に勤めていたのは、1986年〜1991年だ。70年代から80年代初頭にかけて多く見られた校内暴力に対抗する手段として、教師の体罰を容認する雰囲気が残っていた。Kさんは言う。

「威厳を保たなければいけない、ナメられてはいけない、という雰囲気があった。体罰が許されていた時代だった」

周囲に同調して体罰を繰り返すうちKさんの中に、ある感慨が宿るようになる。快感だ。

「段々と不思議なことに快感へと変わる。最初は殴った手が痛かったけど、段々自分が生徒を従えていると思えた」

生徒を従える感覚を得ると、体罰のない指導には戻れなくなっていった。

見せしめに生徒を退学させる

最初の私立高校に5年間勤めた後、Kさんは県外の高校へ再就職をした。Kさんは体罰は行わなかったものの、その高校でも生徒を追い込み、今度は自分自身が苦しむことになる。

当時、その高校では学年ごとに活動するのが当たり前だったが、それぞれの学年の主任である3人の教師が不仲だった。自身の学年に対する管理職からの評価をあげるため、他の学年を乏しめるような争いがあった。

「自分の学年以外の生徒を攻撃する。生徒の服装とか素行面が悪かった時にそれを理由に他の学年を責める。生徒が、とばっちりを受けていた」

Kさんが30歳になった時には、学年主任を任された。Kさんも例に漏れず学年同士の競争に巻き込まれていく。

勤務時間外に毎週開かれる「研修会」は、見せしめの場だった。生徒の遅刻や欠席の数などで他学年と比較され、「管理できないお前が悪い」と非難された。解決策について建設的に議論されることはなく、結論が出ないまま「教師がもっとしっかりしなきゃいけない」とまとめていつも終わる。

「あのころは、常に上に評価されて一喜一憂した。褒められたかったし、他の学年が攻められていると『よっしゃ』と思った」

教師の発言や立場の強さは、どれだけ自校への入学者を集められるか、生徒の進路先、顧問をする部活の強さなどで決まった。

「集めた数が大事。日の当たらない場所の生徒の話を聞く先生を、褒める人は一切いない。冷遇されて病んでしまう」

追い詰められたKさんは、評価の悪い生徒を学校から辞めさせるようになった。

「この子はいない方がいいと諦めた時に辞めさせる。両親には、その子のためにと言い聞かせる。それから、起こったことをメモり、それを三者面談で言い続ける。そうしたら相手が迷惑をかけるからと自分で辞めていく。向こうに言わせる」

「後悔だらけ。生徒を守れなかった。学校にとって上手くいかない子は、辞めさせると次の年は平和になる。生徒を辞めさせるのは見せしめだった。自分が持たなかった」

ついに、Kさんは体調を崩し学校を辞めた。最後の年に辞めさせた生徒は、7人だった。

150年続いた公教育システムの限界

Kさんは、高校で生徒に体罰を加えたことや、退学に追い込んだことを今は後悔している。だからこそ、今回の私の取材に応じた。

「うるかちゃんら若い世代が次の教育を作っていくから。何かしてくれると思った。だから話した」

私が今回のテーマを取材した理由は、「なぜこんなに素敵な子なのに自分を卑下し、時には死にたいとさえ思いながら過ごさなければいけないのか」と憤りを感じることがよくあったからだ。卑下をしている理由は決まって、学校が決めた「こうあるべき」に当てはまらないことによって周りから否定された経験だった。

この否定では、本人さえも「こうあるべき」に当てはまらない自分が悪いと思うようになる。まさに呪いだ。

では、呪いを生徒にかける教師は悪魔のような存在なのか。私がKさんを取材すると、そんなことはなかった。Kさん自身が、「こうあるべき」という価値尺度の一本化に縛られ、生徒を追い込んだことに苦しんだ。

また、私がこの問題について周囲に語る時、「不登校や発達障害への理解を深めることが重要だ」と受け取られることが多かった。あたかも、特殊な生徒だけに問題の原因があると誤解されてしまうのだ。

そうではなくて、そもそも一本化された価値尺度に当てはまらない生徒を排除する、従来の学校の「こうあるべき」を見直さなければいけない過渡期にきている。

教育哲学者の苫野一徳は、公教育が始まって150年間続けられてきた「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」システムが、落ちこぼれ・吹きこぼれなどの問題を構造的に引き起こしているとして、このシステムが限界を迎えていることを指摘した。

多くの人のやり方が自分に合わない場合は別のやり方を試し、そういう方法を選んだ人を周囲が認める社会であってほしい。

そのためには対話が必要であることを、生徒を追い込んだ側のKさんと対話して私は気づいた。

取材に応じるKさん(撮影/成毛侑瑠樺)

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