Tansaユース合宿

学校の「こうあるべき」が壊すもの(2)/ユース合宿作品紹介(3)

2023年09月13日18時19分 Tansa編集部

叡啓大学3年の成毛侑瑠樺(なるげ・うるか)さんによる「学校の『こうあるべき』が壊すもの」。2回目は、学校の偏狭な価値観に苦しんだ同年代のSさんを取材しました。

学校への諦め

1回目の記事では、私が不登校時代に経験したことを伝えた。一本化された学校の価値尺度のもとでは生徒が誤って評価され、生徒は自己否定に陥る。珍しい話に感じた読者が多いかもしれない。

しかしこうした事例は、1つの学校や私だけに限った話ではない。私は20代のSさんを取材した。Sさんは、小学校時代の教師を思い出し「謝ってほしい、何回でも謝ってほしい、毎日死ねって思ってる、一番嫌い、ここから私が壊れ始めた」と話した。

Sさんは、学校のことを諦めている。

「バカ組」と先生からチョークを投げられた

小学2年生のSさんのクラスは、とにかく勉強ができないとだめだった。掛け算ができる生徒の名前が壁に張り出され、できる生徒とできない生徒の違いを煽っているようだった。

Sさんは発達障害がある。得意なものと不得意なものの差がはっきりとしていた。国語が得意で漢字のテストでは高得点をとっていたが、算数は苦手で毎日テストに落ちていた。よく居残りをさせられ、教師から「ふざけているだろ、ばかのふりをしているだろ」と怒られるようになった。次第にSさんは、ばかのふりをすればいいと考え、わざとおちゃらけるようになった。

小学3年生に上がると、クラスの中で「勉強できる組」と「勉強できない組」に分けられた。

Sさんを含めた3人は「勉強できない組」にされた。机も教室の後ろの方に離され、すでにわかっている算数の勉強をさせられたり、「絵を書いてていいよ」と言われたりして授業に参加できなくなった。

しかし、たまに授業中に問題を答えるよう名指しされた。教えてもらっていないため答えられないでいると、担任から「ばかだろ」と言われながらチョークを投げられた。担任はSさんたちを「バカ組」と呼び、それを見ていたクラスメイトもバカにしてくるようになった。担任の振る舞いが、生徒たちにSさんたちをバカにしていいと思わせた。

この担任はいま、教育に関する講演活動や、議員の応援演説をしている。Sさんは淡々と呟いた。

「いま思えばストレスの吐口にされていた。講演やんないでほしい、謝ってほしい、何回でも謝ってほしい、毎日死ねって思ってる、一番嫌い、ここから私が壊れ始めた。」

画鋲の数を数えました。教室から上履きに入れられた数の画鋲が減ってます」

小学6年生になっても、Sさんはいじめを受けた。階段から落とされることもあった。しかし学校はいじめだと認めなかった。

「発達障害があって感じ方が違うからちょっと過敏に感じ取ってしまうんですよね」

上履きに画鋲が入れられていることもよくあった。教師に伝えたところ、特別支援学級の教室に呼び出されてこう言われた。

「特別支援学級の画鋲の数を数えました。教室から上履きに入れられた数の画鋲が減ってます」

教師は、Sさんの自作自演を疑った。いちばんいじめの酷かった部活の顧問と共に、Sさんを問い詰めた。教師2人とSさんのみの空間で、Sさんは認めるように圧をかけられたように感じた。やってもいない自作自演を認めるしかなかった。

Sさんは当時のことを振り返って言う。

「学校の中でこの人ならと思って頼ってだめだったらおわり。小学校に入ってから人生終わってる」

「支援ではなく、赤ちゃん扱いをされるようになった。こうあるべきが強かった」

中学は校区外の特別支援学級のある学校に進学をした。いじめはなくなった。しかし新たな問題に直面する。「支援ではなく、赤ちゃん扱いをされるようになった。『こうあるべき』が強かった。」

ある日の朝、挨拶運動で他の生徒には普通に挨拶をしていた教師が、Sさんを見つけて「おっはよー! ちゃんと来れたんだねー! だいじょうぶー? 」と大袈裟なテンションで挨拶をしてきた。別の日には「Sさんに声をかけてあげてね」と教師が他の生徒に頼んでいた。

「支援学級の人に優しくしてあげなきゃ」という空気が、まとわりつくようになった。Sさんは、「Sさん」としてではなく「優しくすべき支援学級の人」として扱われた。

Sさんは通常学級でも授業を受けていた。支援学級の教師はSさんが通常学級に行く時は、「すみません、今日もよろしくお願いします」と挨拶をしていた。

「通常学級にも支援学級にも席を置いていたのに、通常学級にお邪魔させていただくという扱われ方だった」

まるで通常学級と支援学級に序列があるかのようだった。

Sさんは必要な支援を受けられていたわけではなかった。求めている支援とは乖離していた。

善意によるものであっても、誤った認識に基づいた対応は、善意であるが故に徐々に生徒の気持ちを削り、緩やかに生徒を追い詰めていくことがある。

「学校に対して諦めている」

「こうあるべき」という価値尺度の一本化が強迫的になれば、そこから外れた生徒を否定するだけでは済まない。Sさんが小学生時代に体験したような横暴な指導の選択につながる。生徒のことを曲解してしまう可能性もはらんでいる。

取材中にSさんは言った。

「ひとりひとりの普通があるのに、学校は学校の普通に当てはめようとする。学生時代は世界が狭くて学校しかない。でもその学校が最悪。経験をした自分は根本的には変わってないし、引きずっている、引きずっていけるようになった。起こったことは変わらないし、そう思うしかない。時間が解決するっていうけど、時間が経つほど、傷が深くなっていく。同じことを思い出すたびに深くなっていく。学校に対して諦めている」

本来は子どもたちがより良く生きていく力を育むための学校が、どうしてこのようなことを言わせてしまうのだろうか。

教員であり、自身の過去の行動を後悔するKさんへの取材を通して、さらに問題を追っていく。

=つづく

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