編集長コラム

東京は強くない(116)

2024年06月15日14時50分 渡辺周

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東京で暮らし始めたのは、大学に入学してからだ。練馬区内のアパートで、家賃は月2万9000円だった。

木造アパート2階の6畳一間。階段がきしむ。風呂はない。歩いて10分ほどの銭湯に通っていたが、閉店は夜11時。アルバイトで帰宅が遅くなる日は風呂に入れない。部屋の洗面台で頭を洗い、濡らしたタオルで身体をふいた。トイレは部屋にあったが、たまに壊れて水が流せない。そんな時は洗面器に水を溜めておいて、トイレに流した。水圧を強くするため、滝のように垂直に流すのがコツだ。

となりの部屋には高齢の女性が一人暮らしをしていた。私と女性の部屋を仕切る壁は薄かったが、物音がしない。時々、廊下で顔を合わせることがあり「こんにちは」と声をかけた。だが応答はない。目も合わせてくれなかった。

私にとっては、あのアパートでの暮らしは青春の一コマだ。割と楽しんでいた。しかし、となりの高齢女性にとっては酷なのではないか。背中を少し屈め、きしむ階段をおりていく後ろ姿を見ながら思った。

都知事選で語ってほしいこと

それから20年。Tansaの創刊準備をしている期間に、都内の無料低額宿泊所を取材した。

無料低額宿泊所は、社会福祉法で次のように定義されている。

「生計困難者のために、無料又は低額な料金で簡易住宅を貸し付け、又は宿泊所その他施設を利用させる事業」

だが実際は、無料でも低額でもない。悪徳業者が路上生活者を入居させ、生活保護費の大半を宿泊所の利用料として搾取していた。

豊島区内の宿泊所で暮らす男性2人を取材すると、彼らは約12万円の生活保護費のうち、11万円超を利用料として取られていた。手元には8000円しか残らない。

私が驚いたのは、利用料金の取られ方だ。

生活保護費が区の受け取り窓口で支給される日、宿泊所を運営する業者が本人に同行する。区の担当者は現金入りの封筒を渡すのだが、業者はその場で本人に開封させて料金を徴収していたのだ。

区の担当者はその場面を見ている。区として悪徳業者の行為を黙認しているということだから、区の担当者に相談しても仕方がない。泣き寝入りだ。これでは悪徳業者に行政も加担した「官製貧困ビジネス」だ。

宿泊所での環境も劣悪だ。

1部屋30人。2段ベッドが置かれている。食事は仕出しの弁当だが、おかずが少ない。ご飯だけが残ってしまうことが多い。風呂には3人ずつ、時間をずらして入る。

宿泊所の利用料を11万円以上取られて、手元に残るのは8000円だから、節約をしなければならない。コーヒーを飲みたい時は、安売りをしている自動販売機で80円の缶コーヒーを買う。散髪は1000円の床屋に行くが、頻繁に行かなくていいように髪を短く刈り込む。

2人から、救急車が毎日のように宿泊所に来ると聞いて、その地区の救急車の出動記録を情報公開請求で入手した。やはりその宿泊所にはほぼ毎日、時には1日に2回、救急車が出動していた。病気を抱えている人が多いところに、劣悪な環境で暮らしているのが原因だろう。

宿泊所の入居者にも、希望を持って東京で暮らしていた時代があったと思う。

取材した2人も、Aさんは内装会社の正社員として働き、Bさんは電機メーカーで設計の仕事をしていた。Bさんには娘がいて、連絡はほとんど取っていないが24歳になったとのことだった。

たが失業したり、パニック障害を患ったりで、うまくいかないことが多くなった。いつの間にか、あの宿泊所に流れついた。

東京都知事選では、16兆円という予算の巨大さを各メディアが強調する。スウェーデンの国家予算とほぼ同じだと報じる。そうした報道が描き出すのは、都知事の権力の絶大さであり、突き詰めれば東京の強さだ。

しかし、東京は強くない。弱さを内包している。競争が激しい分、挫折した人が多い。48億円かけた都庁のプロジェクションマッピングは、「張子の虎」だ。

Tansaは2019年に「都営団地で、毎日1人が独りで死んでいた」という記事をリリースした。あの時に取材した高齢者たちは、「いつ自分も孤独死するか分からない」と不安を口にした。ただその一方で、東京で暮らし始めた時の希望ある日々も懐かしそうに語った。バスガイドとして観光客に東京のまちを案内した話をする時の、女性の生き生きとした表情が忘れられない。

挫折を経験しても、希望ある暮らしができる。その人なりの方法で社会に貢献し、生きがいと居場所を持てる。

そういう東京にどうすればできるかを、都知事選の候補者たちには語ってほしい。

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