道をよく尋ねられる。まちを歩いていると、突然、「すみません」とか「Excuse me」と声をかけられる。韓国・ソウルに行った時も、現地の人から道を尋ねられた。
私は極度の方向音痴だ。お役に立てないことが多く申し訳ないのだが、嬉しい。まちを行き交う多くの人から、自分を選んでくれたからだ。良く言えば親しみやすい、悪く言えば隙だらけなのだろう。
まちを歩いている時の一コマではある。だが、ここに取材の本質があると考えている。取材者は、いかに相手に打ち明けてもらうかが大切だからだ。
性暴力に遭った人、いじめられている人、所属する組織の不正を知っている人・・・。犠牲者や内部告発者の視界に入った時、「実は」と打ち明けてもらえるかどうかが勝負なのだ。
どうすれば、打ち明けてもらえるか。
それは「ジャーナリストは観察されている」ことを強く意識することだ。
観察しているのは取材者だけではない。相手もこちらを観察している。「この人は自分を傷つけない思いやりがある人だろうか」、「本当に闘い抜いてくれる強さがあるだろうか」と五感を研ぎ澄ませている。
声をかけられ、取材に入った後はより深く観察される。その結果により、話してくれる内容の深度が変わってくる。こちらは信条を語り、一挙手一投足で覚悟を示さなければならない。全人格をかけて臨む。
ジャーナリストを観察しているのは、犠牲者や内部告発者だけではない。権力者や犯罪者もまた、目を凝らしている。
例えば、労働組合の「関西生コン支部」組合員に対する警察・検察の弾圧。警察・検察は、記者クラブ加盟の新聞・テレビの記者を観察した結果、弾圧しても自分たちが批判されることはないと高を括っている。記者クラブの記者たちが、普段から権力監視などしておらず、むしろ権力に取り入ることに腐心していることを見透かしている。
霞が関の官僚からは、こんな話を聞いたことがある。
ある日、新型コロナウイルス感染症対策分科会会長の尾身茂氏が、集団に囲まれながら駅に向かって歩いていた。「職場の同僚たちと出かけるのかな」と思っていたら、改札口の手前で、尾身氏以外は引き返した。その集団は番記者たちだったーー。
官僚の彼はこのエピソードを話しながら、笑っていた。「尾身さんを集団で追いかけ回したところで、何か重要なことを話すわけがないだろう」と呆れているからだ。番記者たちは、そんな風に観察されていることに気づいていないだろう。
若手の頃は、職業人としての成長と、人間的な成長とは別だと考えていた。後者を強調する先達がいると、「うさんくさい」とさえ感じた。
だが取材相手から観察され続けた結果、自分の人間的な成長がないと、仕事でもいい結果を出せないと分かってきた。なかなか奥が深い。

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