1972年3月、茨城県東海村で、ひとりの核科学者が失踪しました。動燃(現・日本原子力研究開発機構)のプルトニウム製造係長、竹村達也さん(当時36歳)です。
当時、捜査を担当したのは茨城県警の勝田署です。東海村にやってきた刑事は竹村さんの部下に、「北に持っていかれたな」と言いました。
警察は失踪から50年以上たったいまも、北朝鮮による拉致の可能性があるとみて捜査を続けています。北朝鮮の犯行だとしたら、なぜ核科学者を拉致したのでしょう。
日本政府は、これまで17人を北朝鮮による拉致被害者として認定しました。最後に加えられたのは2006年に認定された松本京子さん(鳥取県米子市、1977年失踪)です。しかしそれ以降、17年間も被害者認定がありません。なぜでしょうか。
Tansaは2020年4月から6月にかけて、竹村さんの失踪事件を「消えた核科学者」として連載しました。それから3年あまり。取材を続けていると、さらに新しい事実が浮かんできました。すでに報じた内容と合わせて構成しなおし、改めて連載します。
「誇りあるアトム会」
かつて、原子力で日本の繁栄に寄与しようとした若者たちがいた。1967年に発足した「動力炉・核燃料開発事業団」(動燃)の1期生として入社した面々だ。
動燃には日本政府から託されたミッションがあった。プルトニウムを生成する原発の高速増殖炉を実用化することだ。元の燃料よりも大きなエネルギーを生み出す夢のような技術だ。動燃1期生たちは、エネルギーの自給ができなかったことを日本が戦争に突入し敗北した大きな要因と考えた。そして戦後の日本を原子力エネルギーで支えることを夢見た。
動燃の本拠は茨城県東海村だ。太平洋を臨み、動燃や日本原子力発電など原子力施設が集まっている。日本初の原発は、日本原子力発電が1963年に動燃のすぐそばの敷地で稼働させた。動燃の1期生たちは日本初の原発を仰ぎながら、東海村にやってきた。
1期生は32人。8割は大学の理工系出身者で研究・技術職、2割が総務や人事部門で働く事務職だった。
入社してすぐ、東海村で新人研修を受けた。研修を終えた後は近くの旅館で懇親会が開かれた。研修担当者の社員が言った。
「君らは誇りあるアトム会だ」
当時は、第二次世界大戦の戦勝国が、米国とソ連を中心に核兵器の開発競争に明け暮れていた。動燃が発足した1967年の時点で、米ソ以外にもイギリス、フランス、中国が核兵器を保有していた。中国はこの年、水爆の実験まで実施している。
だが動燃の1期生は、核の平和利用で自分たちが貢献できると信じていた。軍人出身の大統領、ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーが1953年12月8日、ニューヨークの国連本部で「アトムズ・フォー・ピース」と訴えたことを素直に受け入れていた。
北朝鮮がミサイルを発射するたびに
2012年の夏、私はアトム会のひとりである科学者に会った。動燃でずっと原発の研究に打ち込んできた人物だ。私は当時、朝日新聞で東京電力福島第一原発事故後の原発のあり方を取材していた。
取材は、彼が通う東京・港区のオフィスでおこなった。彼の話は、科学者らしく理路整然としていた。私は初めての原発取材で、科学的な知識も乏しかったが、こちらが理解できるまで丁寧に説明してくれた。だだっ広い会議室で2人きりで行われた取材は、3時間に及んだ。クーラーは寒いほどに効いていたが、彼の額には汗が滲んだ。
取材が終わり、私はノートを閉じて席を立とうとした。すると彼は、グラスに麦茶を注いで私に差し出しながら、おもむろに言った。
「君は事件取材の経験はあるの」
殺人や汚職といった事件の取材経験はある。産廃処理場の建設計画を撤回した岐阜県御嵩町長の殺人未遂事件や、「赤報隊」が犯行声明を出した朝日新聞記者の殺傷事件など迷宮入りした事件も取材したことがある。いずれも私にとっては思い入れが深い事件であり、むしろ今回のような科学知識を必要とする取材の方が経験は浅い。だが、なぜそんなことを聞くのだろう。私は尋ね返した。
「何か事件があったんですか」
すると彼は「実は相談がある」と言い、「竹村達也」という名前を挙げた。
「竹村さんはかつて私の上司で、動燃のプルトニウム製造係長を務めた人物なんだ。その竹村さんが1972年、東海村にある動燃の独身寮から突然、失踪した。私より10歳くらい上だから、生きていたら80近くだね。彼の失踪事件が、今でも気になって頭の中にこびりついている」
なんでそんな昔の話が気になるのだろう。失踪はよくある話だ。金銭トラブルや精神疾患など理由は様々だが、日本では毎年8万人超が行方不明となる。そう尋ねると、彼はいった。
「竹村さんは、北朝鮮に拉致されたかもしれないんだ」
プルトニウムは核兵器の原料になる。その製造の現場で「プルトニウム製造係長」として携わっていた人物がいなくなれば、核技術が漏洩するリスクが高まる。しかもその技術が北朝鮮に渡っていたとしたら、核実験とミサイル発射を繰り返している北朝鮮に日本人技術者が貢献していることになる。パキスタンのカーン博士による「核の闇市場」を通じ、北朝鮮に核技術が伝わったと2004年に発覚した時は、国際問題になった。それより30年前に同じことが起きていたということなのか。
「私と同世代の動燃の科学者が同窓会をすると、いつもそのことが話題になる。私たちが核の研究をしたのは、戦後のエネルギー源として平和利用するためだ。北朝鮮がミサイル発射実験をするたびに私は『竹村さんの技術が使われていなければいいが』と失踪事件のことを思い出してしまうんだ」
「失踪した時のこともよく覚えている。彼の愛車が、独身寮の駐車場に停めたままになっていた。ナンバーは『3298』で『ミニクーパー』と読める。カローラなのにミニクーパーとは面白かったから、印象に残っているんだ」
みあたらない失踪理由
核科学者が失踪したからといって、それをなぜ北朝鮮による拉致と結びつけるのか。私は疑問に思った。しかし竹村の元部下は陰謀論を語るような人物ではない。竹村の拉致疑惑が話題になったという同窓会のメンバーも科学者ばかりで、面白半分に話を誇張する人たちとは思えない。
そんな疑問に対して、彼は説明した。
竹村が失踪した直後、茨城県警の勝田署(現・ひたちなか署)の刑事が東海村の動燃事務所に来た。動燃の管理部門から「刑事さんが話を聞きたいといっている」と呼ばれた。プルトニウム燃料部で、竹村の部下として働いていたことがあり、同じ独身寮にも住んでいたからだ。研究所と道路を挟んで向かい側にある建物で「箕輪寮」という名だった。彼のほかにも竹村と関係がありそうな職員が呼ばれていた。
プルトニウム燃料部の会議室に行くと、部屋には中年の男性刑事がいた。
「竹村さんが突然いなくなって、大阪の実家のお姉さんたちが捜している。何か知らないか」
竹村は大阪育ちだ。大阪での人間関係の中で何かあったのなら別だが、少なくとも彼の知る限りでは、竹村が失踪する理由は思い浮かばない。
お金を派手に使う様子もなかった。「畳の下に現金をため込んでいるんじゃないか」と噂をしていたくらいだ。借金はしてないだろう。独身寮の住人はよく麻雀をしたが、それにも加わらない。竹村は独身だが、女性に関する話も全くなかった。周囲にいた人間には、竹村は真面目で仕事一筋に見えた。刑事の参考になる話はない。聞き取りはすぐに終わった。
刑事に「何があったんですか」と聞いてみた。すると刑事は言った。
「‥‥北に持っていかれたな」
刑事の「北に持っていかれたな」という言葉を、彼は今も鮮明に覚えている。
当時は1972年で、北朝鮮による拉致は全く表沙汰になっていない時代だ。「北」とは何のことか。東北や北海道のことを指しているのか何なのか、違和感だけが残った。北朝鮮による拉致事件が取り沙汰されるようになったのは1980年代に入ってからである。
だが中学生の時に拉致された横田めぐみをはじめ、北朝鮮による拉致が次々に明るみになっていき、あの時に刑事がいった「北」とは北朝鮮のことではないかと考えるようになった。竹村は、動燃の核に関する最先端の知識と技術を持っていた。もし、国際社会の脅威となっている北朝鮮の核兵器に竹村が貢献していたとしたらと思うと不安で仕方がない。真相を知りたいと思うようになったのだという。
彼は「竹村さんの失踪の真相を調べてもらえないだろうか」と言った。
竹村の元部下でアトム会のメンバーから思いがけない依頼を受け、私はその後10年を超える取材に着手することになった。
大学生の時の竹村達也さん
=つづく
(本文敬称略)
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