消えた核科学者

41年後に警察リストに浮上した名前(26)

2023年11月22日14時43分 渡辺周

動燃のプルトニウム製造係長だった竹村達也(当時36歳)が1972年3月に失踪した後、茨城県警勝田署の刑事が東海村の動燃のオフィスに捜査にきた。その際に聴取を受けた竹村の部下は、刑事から「北に持っていかれたな」という言葉を聞いた。40年後の2012年、その元部下は私に真相を調べてほしいと依頼した。

私はすぐに竹村の名前をインターネットで検索してみた。本人に関連する情報は全くなかった。国会図書館や、明治以降の雑誌を所蔵している大宅壮一文庫で、新聞や雑誌の記事も探した。しかし竹村についてのものはなかった。竹村の失踪について、警察が北朝鮮による拉致の疑いで捜査しているというのは本当なのだろうか。

「ノドン1号」発射時の内調室長

インターネットや図書館では何の情報もない中、私が思いついたのは、公安畑を歩んだ元警察官僚の大森義夫だ。大森は、警視庁の公安部長や内閣情報調査室長を務めた。

大森と付き合うようになったのは、警察庁の広域重要指定「116号事件」がきっかけだ。

116号事件は「赤報隊事件」ともいわれる。1987年、朝日新聞東京本社が銃撃されたのが最初だ。その後、阪神支局の記者殺傷、名古屋本社の社員寮銃撃、静岡支局の爆破未遂と続く。朝日新聞以外にも、リクルート創業者の江副浩正邸が銃撃され、中曽根康弘と竹下登の両元首相には脅迫文が届いた。いずれの犯行声明文や脅迫文も「赤報隊」を名乗っていたため、警察は全て同一犯によるとみて捜査した。しかし2003年に犯人が不明のまま時効を迎えている。

私が事件の取材を始めたのは2003年の時効後だ。そのときすでに大森は警察を退職していた。初めて自宅を訪れたときに不在だったので、趣旨と私の携帯番号を記した手紙を自宅のポストに入れてきた。すると翌日に連絡があって「犯人を突き止めたいという気持ちはよく分かる」と取材に応じてくれた。

取材を続けると、大森が国内だけではなく、アメリカのCIAや旧ソ連のKGB、イスラエルのモサドなど外国の情報機関との情報戦も経験していることがわかってきた。ペルーの日本大使公邸での人質事件の対処にもあたっていた。

拉致問題については「北朝鮮による拉致事件を防げなかったことをとても悔いている」と語った。

大森は動燃の竹村が失踪してから5年後の1977年、警察庁外事課の理事官を務めた。外事課は外国のスパイ活動などを摘発するのが目的で、北朝鮮による拉致の捜査も担ってきた。

1977年の拉致被害者には、政府が現在認定している17人のうち、3人がいる。久米裕(石川県・当時52歳)、松本京子(鳥取県・当時29歳)、横田めぐみ(新潟県・当時13歳)である。大森が拉致事件を防げなかったことを悔いるのは当然だ。

私がなぜ竹村の失踪に関し、大森を取材しようと考えたのか。

大森は1993年から1997年にかけ、内閣情報調査室長の任にあった。内閣情報調査室は、国内外から収集した情報を分析して、首相の政務遂行に役立てる組織だ。室長には代々、警察出身者が就く。大森の在任中は、北朝鮮による核兵器開発疑惑が高まり、1993年5月には北朝鮮が日本海に向けてミサイル「ノドン1号」を発射した。大森は情報収集に追われた。

警察では拉致問題、官邸では核兵器の開発問題。大森は北朝鮮から、二つの難題を突きつけられていた。竹村の失踪事件について興味を持つに違いないし、情報を持っているはずだ。私はそう思って、大森に会うことにした。

ホテルグランドパレスにて

大森とは2012年、東京・飯田橋のホテルグランドパレス最上階のラウンジで会った。大森と会う時はこのラウンジか、「東京倶楽部」が多かった。東京倶楽部は鹿鳴館が源流の社交場だ。都会の喧騒とは遮断された落ち着いた空間である。

ホテルグランドパレスは1973年、韓国の元大統領・金大中が野党の指導者だった時にKCIA(韓国中央情報部)の工作員たちにより拉致されたホテルだ。竹村が拉致されたのは前年の1972年。私が「このホテルから金大中が拉致されたんですよね」と切り出すと、大森は事件後に日本警察と韓国警察の関係が悪くなった思い出を語った。両者は断交状態となり、それは1983年の大韓航空機爆破事件の時まで続いたという。

私は大森に、失踪した竹村が動燃でプルトニウム製造係長まで務めた人物だったことを説明した。

ところが大森は、竹村の事件について何も情報を持っていないという。「本当だったら大変なことだ」と驚いた。

日本警察の中枢を歩んできた大森が知らないというのなら、一体誰が情報を持っているのだろう。

竹村が北朝鮮に拉致された可能性を訴える元部下は、動燃に茨城県警勝田署の刑事が来て「北に持っていかれたな」と言ったことを強調していた。

だが当時は1972年。北朝鮮による拉致が日本社会で明るみになるずっと前だ。しかも勝田署は所轄だ。大森も知らないのに、所轄の刑事が、北朝鮮による拉致という国家の安全保障に関わる情報を持っていたとは思えない。刑事が言う「北」とは単なる方角で、東北や北海道のことを指していただけではないのか。

それとも大森が私に隠し事をしているのか。様々な事件の真相を大森から聞く度に、何事にも表には出てこないことがあると思ってきたが、竹村の失踪事件はまさにそのケースなのか。

だが大森は「自分は知らないが、拉致事件を手掛けている後輩がいる」とその警察関係者を紹介しようかと提案してくれた。知っていて隠しているわけではないように思えた。

雲を掴むような話に、手がかりがないまま時間が過ぎた。

警察庁リストに、あった

それから5年後の2017年6月、私が朝日新聞を辞めてワセダクロニクル(現・Tansa)を立ち上げ、これまでの取材でやり残したことをメモを見ながら整理している時のことだ。ふと竹村の名前をインターネットで再度検索してみようと思った。5年前は、全く引っかからなかった。だが、もしかしたらという思いで「竹村達也」を検索してみた。すると……、ヒットした。

警察庁のホームページに〈拉致の可能性を排除できない事案に係る方々〉がリストアップされていて、竹村の名前が含まれていた。大阪府警が管轄する四十数人の中に、竹村がいた。竹村は大阪出身で、実家も大阪にあったため大阪府警が担当しているのだろう。

茨城県警の刑事が口にした「北に持っていかれたな」の「北」とは、やはり北朝鮮のことだったのだ。

氏   名 竹村達也(たけむら たつや)

年   齢 36歳(行方不明当時)

住   所 茨城県那珂郡

職   業 公務員

身体特徴等 身長165センチメートル 体重55キログラム

 

昭和47年(1972年)3月1日、茨城県下の勤務先を退職した後、行方不明となっています

私は竹村の風体について、元部下から「身長は160センチちょいで、小太り。黒縁のメガネをかけていた」と聞いていた。警察のホームページに掲載されている写真の竹村も、確かに黒縁のメガネをかけ、顔はふっくらとしている。

なぜ、2012年にはなかった竹村の情報が、警察のホームページにアップされていたのか。それは警察庁が2013年6月に「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」を864人をリストアップし、家族の同意を得られた場合に、本人の写真と情報を公開したからだ。41年前に失踪した竹村達也の名前もそこにあった。

なぜ竹村がこのタイミングで、リストアップされたのか。2013年6月に開かれた公安委員会で、委員長の古屋圭司はその経緯を説明している。

「安倍内閣となって、拉致被害者としての認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国のために全力を尽くすという方針とされたところである」

「その一環として、警察においては、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案ついて、所用の捜査・調査を進めてきた」

「北朝鮮との関連性を示す情報を含め、広く国民からの情報提供を求めるため、御家族の同意が得られたものについては、事案の概要や関係者の写真等を都道府県警察のウェブサイトに公開することとした」

警察はやはり、竹村の失踪に北朝鮮による拉致の疑いを持っていた。

警察庁公表の「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」に掲載されている竹村達也さん

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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