警察庁が、国民のDNA(デオキシリボ核酸)のデータ集めに躍起になっています。
DNAは「体の設計図」といわれ、自分だけが持つ遺伝子情報。個人を識別する「究極の個人情報」といえるものです。口の中の粘膜細胞を、綿棒でこする方法で簡単に採取できます。
警察庁は捜査の過程で集めた「被疑者」のDNAのデータベース化を進め、その数は2018年時点で120万件に達しようとしていました。日本の総人口の100人に1人が警察にDNAを保有されている計算です。
しかし、日本にそれほど多くの犯罪の被疑者(容疑者)がいるのでしょうか。
調べていくと、警察はDNAの採取対象を「微罪」に広げていました。
電柱に迷い犬の貼り紙をしただけの人もDNAを取られています。例えば、名古屋市では「きくちゃん」という迷い犬を探すチラシを電柱に貼っただけで、保育士の女性がDNAを採取されました。きくちゃんは、高齢の飼い主から新しい飼い主に引き渡される際にゲージから逃げてしまい、女性はきくちゃんが殺処分されないよう探し出そうとしただけです。
さらに「被疑者」が不起訴で罪に問われなくなっても、そのDNAがデータベースから削除されたかどうか、本人には分かりません。
警察庁はDNAをデータベース化する理由として、「犯罪捜査に活用」することを挙げています。
ところが、そこには問題があります。DNAの採取に関する法律がない状態で運用され、判断が警察側の裁量に委ねられていることです。
なぜ法律を作らないのでしょうか。この状態を放置すれば、警察が国民すべての個人情報を持つ監視社会が到来する可能性もあります。
私たちは、DNAを警察に採取された人たちから話を聞きました。
愛知県では2019年、ブラックバスを釣っていただけでDNAを採取された青年がいました。
警察庁への情報公開請求をもとにTansa作成
警察が国民の100人に1人を「犯罪被疑者」とみなし、DNAを採取した。微罪で不起訴でも、警察庁はDNAをデータベースから削除しない。本当に100人に1人が犯罪予備軍なのか。「科学捜査万能」の時代に警察が暴走する。本記事は2019年9月〜2020年1月に配信したシリーズ「監視社会ニッポン」の抜粋です。事実関係は取材時点で確認が取れたものです。
バイクで現れた警官
20代のこの青年を、ここでは「内野翔大」さんと仮名で記載する。
2019年の1月3日のことだ。その日の午後2時頃、内野さんは愛知県あま市森南の農業用水路でブラックバス釣りをしていた。用水路は愛知県立美和高校の近くにあり、ブラックバス釣りの人気スポットだ。
内野さんは20代。3年前に精神的な不安から体調を崩し、仕事を辞めて自宅で静養していたが、このところ体調が回復して気分が前向きになり、そろそろ就職活動をがんばろうと思い始めていた。この日は乗用車を運転して趣味のブラックバス釣りにきていた。
内野さんはリール付きの竿を使って、用水路にかかる橋からルアーを投げていた。まだ正月の三が日で、他に釣り人はいなかった。
しかし当たりがない。内野さんは用水路の水際まで下りることにした。
用水路に沿って設置されている高さ約85センチのガードレールをまたいだ。そして、水際のコンクリートの護岸まで下りた。
それでも釣れない。内野さんがあきらめ、引揚げようと水辺に背を向けたときだった。後ろから声がした。
「ちょっと待っとって」
振り向くと、バイクに乗った警官が約8メートル離れた対岸にいて、こう呼ばれた。
「これは逮捕だな」
警官はバイクを対岸に停めたまま、内野さんに近づいてきた。背の高い、若い警官だった。
「入ったらいかんところって、分からんかった?」
「いえ、分かりませんでした」
内野さんは認めた。本当に立ち入り禁止とは知らなかった。
用水路には川に沿ってガードレールとフェンスがある。長さ約9メートルのガードレールが途切れると、金網が張られたフェンスが続く。「なかにはいらないで!」と書かれた看板は、内野さんが乗り越えたガードレールではなく、高さ約1.15メートルのフェンスに取り付けられていた。その看板は横60センチ縦45センチ。私たちが現場を訪ねた日、その看板はボウボウと生えた雑草で隠れていた。
当時、内野さんにはその看板は全く目に入らなかった。
「これまでにここに来たことは?」
警官は重ねて尋ねてきた。
「5、6回あります」
内野さんは正直に答えた。ガードレールを乗り越え、用水路まで下りたのは初めてだったが、過去にもこの辺りではよく釣りをしている。そもそも、ここは人気の場所で、同じようにブラックバス釣りをしている人は多い。内野さんは「みんな、この辺りで釣りをしてますよ」と付け加えた。
警官はバイクに戻り、無線を手にした。応援を要請しているようだった。
内野さんは不安が募り心臓がバクバクしてきた。警官に尋ねた。
「僕、どうなっちゃうんですか?」
警官はいった。
「これは逮捕だな」
バイク2台とパトカーに挟まれて警察署に
内野さんは怖くなって再度聞いた。
「どうなっちゃうんですか?」
「逮捕かもしれない」
20分ほどして、別の若い男性警官が、これもバイクに乗ってやってきた。
後から来た警官は、内野さんをフェンスの前まで行かせ、看板を指差させた。その姿を写真に撮った。
同じその若い警官はさらに、釣りをしていた用水路の護岸も指を差させ写真を撮った。また、内野さんの車の横に釣り竿を持たせて立たせた姿も撮影した。
程なくして、パトカーがやってきた。
年配の男性警官が2人加わり、計4人の警官が内野さんを囲んだ。
内野さんは、精神的な不安から体調を崩すことがあると警官たちに伝えたが、お構いなしだった。
内野さんは逮捕はされず、津島署まで任意同行を求められた。津島署まで約15分。内野さんは前に2台のバイク、後ろのパトカーに挟まれ、自分の乗用車を運転した。警官の一人から「逃げないとは思うけど、バイクとパトカーの間に挟まれる形を取ってください」といわれたからだ。
ハンドルを握る手には冷や汗をかき、心臓のバクバクはより大きくなった。
内野さんは吐きそうになった。
「これから自分はどうなるのだろう」と思うと、運転していても周囲の景色が目に入らなかった。気が遠くなった。15分ほどの道のりだが、内野さんには30分かかったように感じられた。
津島署に着くと、2階の調べ室に通された。
内野翔大さんがDNAを取られた愛知県警津島署=2019年8月27日、愛知県津島市西柳原町2丁目
ポケットの中身をチェック
取調室に入る前、中年の男性警官にスマートフォンを没収された。
続いてポケットの中身も全て出させられた。凶器を持っていないかチェックするためだといわれた。
バス釣りをしていただけなのに、重大な犯罪を犯したかのような扱いだ。何が問題なのか、意味がわからない。内野さんは動揺した。
取調室に入る。中央に机があり、警官と向かい合って座る。内野さんに最初に職務質問をした長身の若い警官だった。警官はいった。
「倒れられても困るから、体調が悪くなったらいってね」
内野さんは、精神的な不安から体調を崩すことがあると伝えていたので、そのことを気にしているようだった。
だが、聴取に遠慮はなかった。
家族構成。
中学校からの学歴。
職歴。
両親の仕事――。
聴取は約1時間に及んだ。警官はパソコンで調書をとっていたが、キーボードを打つのが遅かった。「パソコンで調書を取る作業は初めてなんだ。君はパソコンは得意?」と聞かれたのを覚えている。
聴取の途中で、廊下を挟んで向かいの鑑識の部屋から、別の警官が声をかけてきた。
「顔写真、指紋、DNAを採るから」
取り調べの警官は「え、DNAもですか」と驚いたようだった。
10分間の流れ作業で顔写真、指紋、DNAを採取
内野さんは向かいの鑑識の部屋に連れて行かれた。ここからは低身長で坊主頭、メガネをかけた警官が内野さんを担当した。
まず、靴のサイズと身長を測る。
続いて、顔写真を正面と斜め横から。
それから指紋の採取。スキャナで10本の指の指紋データを取り込む。しっかりデータを読み込めるように、鑑識の警官は内野さんの指を上から強く押さえつけた。
そしてDNA。同意書を渡され、簡単な説明を受けた。
DNAの採取は任意だが「いやなら拒否できる」という説明はなかった。一連の流れの中で、内野さんは「DNAもみんな採られているのだろう」と思ってしまった。人差し指を黒い朱肉につけ、同意書に捺印した。
綿棒を渡され、両ほほの裏側をこするよう指示された。
警官は「綿棒の色が変わったらいいよ。DNAを取れたということだから」といった。
この間、約10分。あっという間の流れ作業だった。
警官「まちのために頑張っている」
DNAを採取された後、取調室に戻った。最初の若い警官が、身元引き受けのため内野さんの親に電話したいから番号を教えてほしいといった。番号を伝え、内野さんは若い警官と1階に降り、両親の迎えを待った。
両親を待っている間、落ち込む内野さんに若い警官はいった。
「僕たち税金ドロボウとかいわれるけど、まちの安全のために頑張っているんだよね」
「用水路での釣りは危険だから、内野さんのためにもいったんだよ」
若い警官が電話をしてから50分ほどして、両親がタクシーで津島署に迎えにきた。
帰宅後、両親にDNAを取られたことをいうと、「そんなことまでするのか」と驚いた。
DNAを取られたことで内野さんは、関係のない事件の犯人にされるのではないかと不安になってきた。インターネットで「誤認逮捕」を検索し、関連する情報をあれやこれや調べた。検索を繰り返すほど不安になっていった。冤罪の被害者になるのではと、身も心もへとへとに疲れ果てていた。
内野さんは「これまでの人生で最悪の日でした」といった。
内野さんは精神的に不安定になり、その後、体調が悪化する。
「自分とは身に覚えのないほかの事件で、警察から『鑑定の結果あなたのDNAが見つかった』と呼び出されるのではないか。警察から連絡がくるのではないか。そう考えると精神的に不安定になってしまった」
息苦しくなったり、手がしびれたり。DNAを採取されてから半年以上が経った7月には、自宅のキッチンで倒れた。
内野さんのことが心配になった両親は7月23日、名鉄木田駅のそばにある美和交番に赴いた。内野さんのことを津島署に連れていった若い警官に事情を尋ねるためだ。
DNAをデータベースから削除してもらえれば、息子の不安も解決するという期待があった。
内野さんの両親が訪ねた津島署美和交番=2019年9月18日午後4時24分、愛知県あま市木田道下
「軽犯罪法なんで」
両親が美和交番に行くと、内野さんを津島署に連れて行った若い警官がいた。バイクで川端にやってきた最初の長身の警官だ。彼は上司らしき年配の男性と一緒に、両親に対応した。
若い警官は内野さんがどんな罪に当たるのかについて「軽犯罪法第1条32号に田畑等の侵入の罪というのがあります」と答えた。
さらに、その若い警官は当時の状況を説明した。
「フェンスがあって、そこに入らないでという立ち入り禁止の札があった。木曽川とか庄内川とか、普通に入れる場所だったら大丈夫なんですけど」
「まあ、息子さんの場合は刑法犯とかとは違う。軽犯罪法なんで。軽い犯罪です」
「ショックを受ける気持ちはわかります」
母親は尋ねた。
「DNAまで採らなきゃいけないほどの犯罪だったんですかね、軽犯罪法って」
警官はいった。
「まあ、犯罪として大きい小さいはもちろんあるんですけど、大小に関係なく、全員から採っています」
「全員なんですか?」
母親は失笑した。
だが若い警官はあっさり答えた。
「全員から採ってます」
父親が心配なのは、内野さんが精神的なショックを受けていることだ。そのことを警官たちに告げた。なぜその場の注意ですませず、わざわざ津島署まで4人もの警官で連れて行ってDNAを採ったのか。しかも内野さんは明らかに逃げるつもりなどなかった。
若い警官は答えた。
「息子さんが逃げるとは思っていなかったんですけど、捜査が必要なんですよ。写真とか撮ったりしなきゃいけないですし。車で来ていたので、一緒に警察署に行きましょうか、ということで他の警官の応援を頼みました」
「まあ、取り囲んでといったら、ちょっとあれなんですけど、一応、応援を頼んで。息子さんがショックを受ける気持ちはわかります」
「逮捕ではなく任意同行なので、拒否はもちろんできるんです」
「DNAを削除してほしい」
内野さんが心配していたのは、身に覚えがない他の事件で「検査の結果、君のDNAが発見された」と警察から呼び出されるのではないかということだ。悪意を持った人が自分をおとしめようと、髪の毛などDNAを採れるものを証拠になるよう現場に置いてくることも考えられる。
それについて、若い警官は全面的に否定した。
「そこまでのことは考えなくていいですよ。例えば僕の指紋が殺人現場にあったとして、『何で?』ってなるとは思うんですけど、アリバイとか調べますので、冤罪なんて絶対にありません」
警官は「絶対にありません」と再度念を押した。
年配の上司らしい人物は、DNA採取の効用について語り出した。
「東日本大震災とか西日本豪雨なんかでもそうなんだけど、ご遺体を発見してもだれの遺体かわからなければ、お返しすることができないじゃないですか。だけどDNAを採っていれば照合して発見できる。今一番確率が高いのはDNAなんですから」
「個人情報だ、どうだこうだっていっても、本人さんを特定するのは非常に難しい時代なんですよ。金融機関なんかでもそうだわね。本当に必要で求めても教えてもらえない」
だが両親にしてみれば、DNAを警察に持たれている限り、息子の不安は解消しない。父は食い下がった。
「罰金ですむなら罰金をお支払いしてでも、DNAを削除してほしい。DNAが警察から削除されたら本人もきっとすっとするはずなんですけど」
それに対し、若い警官はいった。
「そこが相当気に病んでるところなんですね。その、DNAを採られたことが」
両親の相談に対し、警察は取り合わなかった。こうして、内野さんは裁判で争うことを決意した。
重要犯罪の6倍超に上る、軽微な犯罪での採取
2018年の取材時点で、警察庁が保有している「被疑者DNAデータベース」は約120万件に上った。現在はさらに数が増えていると見られる。120万件のうち、「殺人」や「強制わいせつ」といった重要犯罪は5万9161件、全体の5%にすぎない。
Tansaの情報公開請求に対し警察庁が開示した、罪名別の「被疑者DNA型記録登録件数」の文書でわかった。何の罪か具体的に示していない「その他」という項目での件数は、「重要犯罪」の6倍超の37万4715件にも及んでいる。「その他」には軽犯罪法違反などの軽微な犯罪が含まれている。
こうしたことから、警察庁が重要犯罪でないケースでも関係者からDNAを採取し、新たなデータベースの蓄積を増やしている実態が見えてきた。
【グラフ】警察庁の文書では、犯罪容疑を「刑法犯」と地方条例などの「特別法規」に分類。さらに刑法犯の中でも「殺人」や「放火」など六つの罪状を「重要犯罪」に位置付けている(警察庁への情報公開請求で入手したデータをもとにTansa作成)
「採取自体が違法・違憲」
立ち入り禁止の農業用水河岸でバス釣りをしていて愛知県警津島署に連行され、DNAを採取された内野翔大さん(仮名、20代)は、2019年9月5日、国と愛知県を相手取り、「警察庁が今なおDNA型データなどを保管していること自体、違憲・違法である」などとして名古屋地裁に提訴した。警察庁のDNAデータベースからの削除と慰謝料計300万円を求めた。DNA採取を行うこと自体の違憲性を問う。
訴えによると、内野さんは2019年1月3日午後2時ごろ、愛知県あま市森南にある立ち入り禁止の看板がかかった農業用水路で、ブラックバス釣りをしていた。愛知県警津島署に連行されて軽犯罪法違反の疑いで取り調べを受け、DNAを採取された。
内野さんによると、用水路の立ち入り禁止の看板は目に入らなかったといい、DNAを採取される際は、採取を拒否できる旨の説明がなかったという。
その後内野さんは書類送検されたが、検察側からは連絡がなく、不起訴となった。
内野さんの代理人である川口創弁護士は2019年9月5日、名古屋市中区の弁護士事務所で記者会見を開いた。
川口弁護士は「本来、DNAの採取の必要のない軽微なものだった。DNAの採取を目的にしたもので、採取したこと自体が人権侵害にあたる」と話した。
そして今年2月、名古屋地裁は内野さんの訴えを退けた。
ピックアップシリーズ一覧へ本記事は2019年9月〜2020年1月に配信したシリーズ「監視社会ニッポン」の抜粋です。事実関係は取材時点で確認が取れたものです。記事の続きはリンク先からお読みいただけます。