編集長コラム

モノが言えない組織では(110)

2024年05月04日18時42分 渡辺周

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読売新聞が5月1日、大阪社会部の主任(48)を退職させると記事で公表した。岡山支局の記者(53)は記者職から外し休職処分。大阪本社の編集局長や社会部長ら幹部も、給与の一部返上や休職の処分とする。

発端は4月6日付の夕刊に掲載された記事だ。

見出しは「『紅麹』流通先 販売中止で痛手 小林製薬製」。次のような趣旨だ。

ーー小林製薬の紅麹を使ったサプリメントで健康被害が確認された。そのため、同社の紅麹を使っている食品メーカーなどが、自主回収や顧客への説明に追われている。事業者は憤り、困惑している。

しかし岡山県内の企業の社長から、読売新聞は抗議を受ける。岡山支局の記者から取材を受けた際、以下の二つは発言していないのに、コメントとして載っていたからだ。

「突然、『危険性がある』と言われて驚いた」

「補償について小林製薬から明確な連絡はなく、早く説明してほしい」

読売新聞は4月8日の夕刊で、訂正記事を出し当該コメントを削除する。取材相手の社長が言ってもいないことを掲載した原因は、「確認が不十分でした」。

ところが、これで問題は終わらなかった。

読売新聞は4月17日、大阪社会部の主任が社長のコメントを捏造していたと記事で明らかにしたのだ。

社長を取材したのは、岡山支局の記者である。どういうことなのか。読売新聞によると、以下のような経緯だ。

――4月6日付の夕刊では、小林製薬の取引先の反応を報じた。その際に大阪社会部の主任は、原稿のとりまとめを担った。だが主任は「岡山支局から届いた原稿のトーンが、(小林製薬への憤りという)自分がイメージしていたものと違った」ため、コメントを捏造した。取材した岡山支局の記者も「社会部が求めるトーンに合わせたいと思った」。主任に、修正や削除を求めなかった。

「虚偽記事」を「虚偽メモ」と呼ぶごまかし

読売新聞は今回の捏造事件を受けて、「記者の経験に応じた研修などを実施してきましたが、信頼回復のため、記者教育をさらに徹底し再発防止に取り組みます」という。だが、記者教育を徹底すればそれでいいのだろうか。

問題の本質は組織体質にあると思う。

部下は上司に、支局は本社にモノを言えない。対外的には、政府や大企業、世の中の空気に抗えない。そういう組織体質だ。組織は一つの生き物だ。その体質が行動に影響を与える。

読売新聞に限ったことではない。捏造事件などメディア企業が不祥事を起こす時、モノが言えない組織体質が影響していることが多い。

例えば2005年、朝日新聞で「虚偽メモ事件」があった。

長野総局のA記者(当時28)が、長野県の田中康夫知事と、郵政民営化に反対していた亀井静香氏が県内で会談したとのメモを作成。政治部に送った。政治部はそのメモを元に記事を出した。だが田中知事と亀井氏は会っていなかった。田中知事が定例の記者会見で記事の間違いを指摘した。A記者は朝日新聞社からの調べを受け、懲戒免職となった。

事の始まりは、政治部から長野総局への取材依頼のメールだ。「田中知事と亀井氏が長野県内で会談したとの情報がある。裏付け取材をしてほしい」。そういう内容だ。

政治部から依頼され、取材を担当したのがA記者だ。長野総局で県政を担当していた。政治部からのメールの2日後、総局長から「田中知事はなんか言ってた?」と尋ねられた。

A記者はその日は総局の泊まり勤務。翌日の地方版の校閲作業中だった。「はい。亀井さんと会ったと言っていました」。そう答えてしまった。

総局長はA記者に、田中知事の発言内容を、政治部の与党キャップにメールで送るよう指示した。田中知事との一問一答をでっち上げたメモを作成し、送信した。

政治部はそれをもとに、どんどん原稿を作っていく。翌日の朝刊の見本である「大刷り」ができた時、A記者は「頭が真っ白」になった。当時、朝日新聞社からの聴取に対してこう語っている。

「社会面の記事と地域面の記事を執筆してヘトヘトになったところで、紙面の大刷りを見ました。頭の中が真っ白になりました。この段階でほとんど私のメモで作っていますから、紙面を取り換えるのは大変なことだと思いました。気力がなかったというか、ヘトヘトで、なるようになれと思ったところもありました。また、このまま記事にする以上は当然、亀井氏周辺に取材しているとも思いました」

私は当時、朝日新聞の阪神支局員だった。前任地の松江支局以来、本社の部署から来る取材依頼にうんざりしていた。「そんなのお前が自分で取材せーよ、支局の記者は召使いやないで」と言いたくなるものが多かった。このA記者とは面識はないが、ほぼ同い年でもある。他人事とは思えなかった。

もちろん、メモの捏造が許されるわけではない。記者失格だ。

だが私が疑問だったのは、政治部の責任はどうなっているのかということだ。記事を出したのは政治部だ。朝日新聞は「虚偽メモ問題」と呼んでいたが、それはごまかしだ。「虚偽記事問題」だ。

当時、この問題を社員全員で議論しようということで、「信頼回復フォーラム」という掲示板が社内ウェブサイトに設けられた。実名で投稿することが条件で、社員なら誰でも投稿できる。私は投稿した。

「記事にしたのは政治部です。記事にするまでの過程について、政治部から詳しく説明してください」

だが政治部は沈黙する。

そもそもあの社内掲示板に投稿したのは、ごく一部の人だった。掲示板の運用を始める際、「自身の人事への影響が心配な社員のため、匿名での投稿も認めたらどうか」という意見があった。自由にモノが言える組織体質ではないということだ。

もし、自由にモノが言える組織体質だったなら、A記者は素直にこう言えたかもしれない。

「忙しくて田中知事にはまだ取材できていません」

「さっき送ったメモは嘘なんです、記事から削除してください。ごめんなさい」

むのたけじさんの回想

組織内でモノが言えないメディア会社の体質は、戦前から変わっていない。

1945年8月14日夜、朝日新聞報道第二部(社会部)で部会が開かれた。当時の様子を同部の記者だった、むのたけじさんと岸田葉子さんが対談で語っている。『新聞と戦争』(朝日新聞「新聞と戦争」取材班、朝日新聞出版)に収録されている。

あいさつしたのは、荒垣秀雄部長だ。荒垣部長は、目をしばたかせながら言う。

「明日の昼に天皇陛下の放送がある。戦争はこれで終わりになる」

むのさんは、「もう明日から来ない」と宣言する。同僚たちに語りかける。

「新聞は本当のことを読者に伝えることで新聞代をもらっているのに、ずっと読者に背き続けてきたわけだから、そのことへのけじめはきちっとつけなければいかん、建物も輪転機も社会にささげて、間違った新聞を出した人間は退き、新しい時代の新聞を作る資格のある人たちが作ったらいい」

ではなぜ、新聞が嘘の報道で戦争を煽ってしまったのか。

対談の司会役の記者が、「当時の朝日には軍国主義に傾倒した記者もいたと回想する人がいる」と水を向けると、むのさんが答える。

「社内では、軍の尻馬に乗って軍国主義を主張する記者は、いても10人中1人未満だったと思う。9人は、全滅を玉砕と書くのはおかしい、という気持ちを持っていた。問題は、それを紙面で表現できなかったことだ」

記者はさらに質問する。

「社内では、戦争への批判的な思いを自由に記者同士で語っていたのですか」

むのさんが言う。

「できなかった。たとえば私と岸田さんの2人でなら、腹を割ってしゃべれる。ところがそこへだれかが来ると、できなくなる。3人以上だと、後で情報が漏れた場合、だれが漏らしたのかと疑うことになるから。だから、3人以上が集まって大事な問題をしゃべるということはずっと、新聞社内では行われていなかった」

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