編集長コラム

「偽坊主」事件から考える(109)

2024年04月27日18時27分 渡辺周

「偽坊主」事件を取材したことがある。

2012年から13年にかけてのことで、当時は朝日新聞名古屋本社の社会部記者。取材のきっかけは、裁判担当の記者が持っていた記者会見資料を目にしたことだった。名古屋市内にある高野山真言宗の寺の僧侶が、不当解雇で寺を訴えた際のものだ。

その記者によると、不当解雇での提訴はすでに3例目。裁判記事で取り上げないという。だが解雇された僧侶の文章の中に、私の目に飛び込んできた文言があった。

「私は偽坊主です」

え? どういうこと?

裁判としては3例目でも、「偽坊主」という言葉は聞いたことがない。すぐに取材に着手した。

「偽坊主」と告白した男性は、ハローワークでその寺が「僧侶見習い」を募集しているのを見つけたという。応募して採用され、間もなく単独で通夜などに派遣されるようになった。

問題は、彼が僧侶としてまだ一人前ではなかったことだ。読経の後の法話では、何を話していいかわからない。高野山真言宗なのに、インターネットで見つけた浄土真宗の法話を参考にした。納骨の際には、やり方を知らないので作法を一部省いた。

寺はどう答えるか。私は同僚と寺に赴いた。だだっ広い会議室に通され、住職や副住職、寺の役員たちと対峙した。

寺側が反論する。

「見習いは未熟ではなかった。本人に『1人でも儀式など必要なことはできる』と確認をとっている」

「僧侶に何かの法的な資格があるわけではない。記者と同じだ。報道機関だって新人に取材に行かせるでしょう」

見習いが未熟ではないというのは事実誤認だ。本人は他宗の法話を語り、納骨の儀式を省いた。

報道機関も新人に取材をさせるというのはその通りだ。記者になるのに資格が必要ないのも事実だ。

しかし、報道機関は記者倫理を教え込む。最終的に記事や番組として社会に送り出すにあたっては、組織として質を担保している。

法的な資格を記者になる条件としないのは、政治権力の介入を招かないようにするためだ。その分、自ら律して報道機関としての責任を果たす。だからこそ、取材の便宜など様々な権利を使って活動することを、社会から認められている。

「偽坊主」より悪質な点

「偽坊主」事件から12年。共同通信が「報道の自由裁判」で、長崎新聞のことを「私企業だから批判に晒される対象ではない」という主張した。Tansaの中川七海が昨日報じた

これは、「長崎新聞は偽の報道機関です」と言っているのに等しい。報道機関であるならば、日頃から他者を批判している以上、自分たちが批判対象として晒されても受け入れる責任があるからだ。

私企業に過ぎないと強調することで、長崎新聞は批判に晒される責任を負わなくてもいい。そう共同通信は主張しているのだ。

名古屋の僧侶見習いは、僧侶としての責任を果たしていないことに苛まれ、「私は偽坊主です」と告白した。

加盟社の長崎新聞が責任から逃れられるように画策した点で、共同通信の方が悪質だ。

新聞労連の厳重抗議

「報道の自由裁判」が開かれた4月26日、報道機関をめぐるもう一つの出来事があった。

神戸新聞の情報源の秘匿を、兵庫県が脅かしたことに対して、新聞労連が厳重抗議したのだ。

新聞労連とは、全国の新聞社や通信社の企業内労働組合が加盟する連合体だ。労連傘下の企業内労働組合の組合員総数は約18000人である。

新聞労連の抗議文によると、経緯は以下だ。

斎藤元彦知事を批判する文書を、県幹部が作成し関係機関に配布した。県幹部は解任された。

県人事課は神戸新聞に対し、「事実関係の調査」の名目で、知事への批判文書を受け取ったかどうかの回答を求めた。

だが、報道関係者による情報源の秘匿は、情報提供者の報道機関への信頼を確保し、市民の知る権利を守る観点から、必要不可欠な記者の職業倫理だ。各種判例でも認められている。

神戸新聞記者は、4月18日の斎藤知事の記者会見で、報道の萎縮への懸念を表明した。

新聞労連の抗議は当然だ。情報源の秘匿は、報道機関の権利として何が何でも守る必要がある。兵庫県が、最高裁でも認められている権利を蔑ろにしていることに呆れる。

だが共同通信が、長崎新聞を「私企業」と言っているようでは、「本当に神戸新聞に報道機関の権利が必要なの?」と社会から思われても仕方がない。神戸新聞もまた、共同通信の加盟社だからだ。

共同通信は情報源の秘匿をめぐる神戸新聞の闘い、さらには報道機関全体のことを考えているだろうか。

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