編集長コラム

脱「シャンパン民主主義」(144)

2025年01月18日15時58分 渡辺周

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大学受験で浪人をしていた1年間は、ジャーナリストとして仕事をする上で大きな影響を与えている。新聞奨学生として住み込んだ販売所で、地べたを這うような生き様の人たちと出会ったからだ。

ある人は、母親の借金の保証人となったものの母親が蒸発。借金取りから逃れて新聞販売所にたどり着いた。またある人は、ヤクザから足を洗って販売所に。入れ墨を隠すため、夏でも長袖で配達や集金をしていた。

私の住まいは販売所の2階。となりの部屋は空き部屋で、そこに新入所員が入居するのだが、1年間で7人夜逃げした。大抵、夜中の12時過ぎにガサゴソと音がして「あ、夜逃げだ」と気づく。午前3時ごろから、配達前のチラシ入れの仕事が始まる。それまでに逃げようということだ。

キツイ仕事に耐えられないのか、他の事情があるのかは分からない。だが辞めるならちゃんと告げればいい。それすらしない「夜逃げ」が身近で頻繁に起きて、「こりゃディープなところに来たな」と思った。

販売所に腰を据えていた人たちからは、逆境にあっても面白がりながら生きる術を学んだ。

同じ系列の販売所が集まり、新年会を高級ホテルで開いたことがあった。グループ会社の主催で、所員たちには「スーツで来るように」というお達しがあったものの、スーツを着たことがない人が多い。そういう人たちはスーツを買ってウキウキだ。私はブレザーがあったものの、ネクタイの締め方が分からない。初めてのスーツ組に混じって、スーツ経験者にネクタイをしてもらった。

ただ、いざ新年会に一堂がスーツ姿で集合すると、はっきり言って似合わない人が多かった。みんなで笑った。

サブちゃんのコンサート

その後私は、記事を書く側に転じた。浪人時代の販売所の人たちなら、記事にどんな感想を抱くだろう、読んでもらえるだろうかとよく考えた。

販売所の人たちは当時、全く新聞を読んでいなかった。それこそ、新聞なら売るほどたくさん眼前にあるのに、見向きもしていなかった。

社会問題に興味がないわけではなかったと思う。私が一番仲の良かった30代の所員は、「渡辺くん、面白いのを見つけたよ」とよく本を勧めてくれた。そのうちの1冊、評論家の呉智英さんが執筆した『サルの正義』(双葉社)は受験勉強の合間を縫って読んだのを覚えている。

どうすれば、あの時の販売所の仲間たちが読んでくれるような記事を書けるのか。ヒントをくれたのは、脚本家の倉本聰さんだ。倉本さんは、こんなエピソードを教えてくれた。

北島三郎さんの北海道コンサートツアーに同行したことがある。北島さんのコンサートには、昼間の農作業でヘトヘトになった人でも「サブちゃんの歌を聴きたい」と足を運んでいた。コンサート中、北島さんはステージの上にいながらも観客に目線を合わせ「おかあちゃん、おかあちゃん」という感じで語りかける。冗談も上手で会場は爆笑。脚本家の自分はそれまで、評論家の言葉や賞を気にかけてきた。だが大切なのは「地べた」からモノを見ることなんだと気づいた。

トランプ・斎藤再選の根底に

私が好きな政治ドラマに『コペンハーゲン』がある。主人公はデンマーク初の女性首相。人権と地球環境を重んじるのが政治信条で、意思の強さと思いやりを併せ持つ。ドラマを観ていると感情移入してしまう。

ただ、そんな彼女を政敵が「あなたはシャンパン片手に理想を語っているだけだ」と批判する場面がある。庶民の気持ちが分かっていないという意味だ。

その政敵は、妥協しては長いものに巻かれる。最低な政治家で、ドラマを観ているとムカムカしてくる。

しかし主人公への批判は核心を突いているし、今の時代を反映したセリフだと思った。ドナルド・トランプ氏や斎藤元彦氏に投票した人たちにも、「シャンパン片手に理想を語る人たち」への反感が根底にあるのではないか。

理想は語るものではなく、実現するものだ。そのためには、地べたに足をつけることから始めるしかないと思っている。

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