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血のついたご飯を食べたおばあちゃん(20)

2022年12月27日17時22分 小倉優香

私は2歳から高校卒業までの16年間を沖縄で過ごした。

小学生の時、沖縄戦を経験した人にインタビューをするという宿題が出た。私の両親はともに沖縄出身ではない。沖縄戦を経験した親戚もいなかったので、友人の祖母に話を聞くことにした。

友人の祖母は、いつも私が遊びに行くと笑顔で「いらっしゃい」と明るく出迎えてくれ、お菓子をくれる。学校の授業で、ソテツで編む虫かご作りを教えに来てくれたこともあった。

話は友人の家に行って聞いた。畳の部屋で、友人の祖母は語り始めた。

1945年4月1日にアメリカ軍が沖縄に上陸して1カ月頃のことだ。アメリカ軍の攻撃から逃れるため、住んでいた那覇市から南部へ逃げ、ガマと呼ばれる鍾乳洞に身を潜めていた。

ガマには逃げてきた人たちが身を寄せ合った。住民を巻き込んだ激しい地上戦で、多くの人が負傷していた。少ない食糧を分け合わなくてはならず、血のついたご飯でも食べた。

ある日、日本軍の兵士がガマにきて、ガマを出るよう指示された。言うことを聞かないと殺されると思って、ガマを出た。身を隠す場所がなく、「亀甲墓」と言われ墓の石室に逃げ込んだ。

首里高校に入学した時は、戦後も沖縄の戦いが続いていることを知った。

入学したばかりの頃、売店に弁当を買いに行こうと歩いていた時のことだ。中庭にある大理石のプレートに目が止まった。沖縄県の代表校として初めて甲子園大会に出場した記念に作られたものだ。プレートには、野球ベースのダイヤモンド状に石が埋め込まれている。何の石だろうと思いながら弁当を買いに売店へ行った。お金を払いながら石のことを聞くとその歴史を教えてくれた。

首里高校が甲子園に出場したのは1958年。沖縄がまだアメリカの統治下にあった頃だ。結果は1回戦敗退。他校と同じように、甲子園の砂を持ち帰った。ところが、「外国からの砂」は那覇港での検疫に引っかかり、球児は泣く泣く海に砂を捨てた。その様子を報道で知ったJALの客室乗務員が、石ならどうかと提案し甲子園の小石を空路で送った。

私は、自分と同じ年代だった高校生の希望が海に捨てられたと思うと、やるせない気持ちになった。

2022年10月、Twitterでひろゆき氏が、普天間飛行場の移設先として埋め立て工事が進められている辺野古での座り込み抗議についてツイートをした。

ひろゆき氏のツイート内容は、「座りこみ抗議が誰も居なかったので、0日にしたほうがよくない?」というものだった。「新基地断念まで座り込み抗議 不屈 3011日」と書かれた看板の前で、笑みを浮かべながらピースサインをした写真とともに投稿した。座り込みをしている人が警備員に止められるのを見て「頑張ってる頑張ってる」と笑いながら見ていたり、ツイート後に出演したアベマTVで「あれが誰かのお墓ならあんなことはしない。けどあれって誰かが書いた汚い文字じゃないですか」と発言した。抗議活動をしている人を侮辱する行為だ。

ひろゆき氏が写真を撮った看板に書かれた「不屈」は、戦後うるま新報の社長や那覇市長を務め、沖縄の本土復帰を牽引した瀬長亀次郎さんが掲げていた言葉だ。瀬長さんは、自分が不屈でありたいと思いこの言葉を選んだのではなく、県民がなんとしてでも故郷を取り戻そうと声をあげる姿を見てこのふた文字を選んだ。

ひろゆき氏は、今回のような言動を、血のついたご飯を食べたおばあちゃんや、海に甲子園の砂を捨てた首里高校の球児たちの前でもできるだろうか。

戦争を生き、本土復帰のために奮闘した住民を侮辱する言動を、私は絶対に許さない。

 

 

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