飛び込め! ファーストペンギンズ

無題(24)

2023年02月07日16時44分 中川七海

西日が差し込む時間帯に、私は東京・渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていた。交差点を取り囲むビルを見上げると、デカデカとした宣伝用のモニターがある。何種類もの音と映像が入り混じり、頭がクラクラする。

早くこの場から立ち去りたいと思っていると、聞き覚えのある声が聴こえてきた。生の声ではなく、スピーカーを通した音だ。私はあたりを見渡した。声は、交差点の対岸に映るモニターからだった。友人のバンドが「注目のアーティスト」として取り上げられ、彼らの曲が流れていたのだ。

写真を撮って本人に伝えようとスマホを取り出したが、モニターの画面は切り替わってしまった。信号も青になった。「また機会があれば伝えよう」と歩き出した。

次の日、スマホの通知音が鳴った。開くと、昨日渋谷のモニターで見た友人からだった。「なんか賞を受賞してたの、おめでとー! ! 」

私がシリーズ「公害 PFOA」で「PEPジャーナリズム大賞」、「双葉病院 置き去り事件」で「ジャーナリズムXアワード大賞」を受賞したことを知り、メッセージをくれたのだ。TwitterやFacebookを互いにフォローしているわけではないので、どこから知ったのかはわからない。メッセージのやり取りも、数カ月ぶりだ。私は「ありがとう。それぞれの場所でがんばろー! ! 」と返した。

大学時代、ゼミ仲間がギターをしていたバンドのライブに、私は足を運んだ。一見、優しくてお洒落なロックだが、何かを叫んでいるようで切ない音楽だった。そんな曲を作っていたのが、バンドのボーカルであり、メッセージをくれた友人だった。

彼は、大学で福祉を学んでいた。障がいを持つ弟がいる影響もあるという。よく兄妹の話をする、優しいやつだと思っていた。だが、大学を辞めた。音楽で食べていくために覚悟を決めたらしい。大阪・難波に家を借り、たこ焼き屋でバイトをしながら曲を作り続けた。

一方で、メンバーは何度も入れ替わった。たとえば、私をライブに誘ったゼミ仲間は公務員になった。副業がダメで、結局バンドを辞めた。

活動分野は違えど、私はずっとバンドを続けている彼を、暗い社会の中で一緒に闘う仲間だと思っていたし、今も思っている。大学生のとき、私は東日本大震災の被災地域で音楽フェスを開いたり、休学して水道のない小さな村に住んだり、好き勝手やってきた。今思うと全て、自由ではない社会への抗いだった。同調圧力が充満し、ただ生きるだけで苦しい社会だと感じていたからだ。

大学の最後の年、私はゼミの教授から、ゼミ生全員の前で「中川さんは、自分探しはそろそろやめたほうがいい」と言われた。銀行や役所への内定が決まっていくゼミ生の中で、私だけ就職活動すらしていなかったからだ。「自分を持ってるから、こういう生き方をしとんねん」と心の中で言い返したが、今でも覚えているぐらい腹が立ったし、傷ついた。

大学卒業から何年も経って、教授と話す機会があった。Tansaに入る前、留学の手続きを進めていたときだ。出身大学からの推薦状が必要になり、教授と電話で話した。教授は言った。

「中川さんは、学生の時からブレないね。あの時は変わり者だと思っていたけど、君の言動がようやくわかったよ。それで私も先日、NPOを立ち上げたんです。教授としてだけじゃなくて、NPOを通して社会に働きかけないとあかんな、と思って」

私は嬉しさよりも、怒りが勝った。大学生の時、教授の言葉を真に受けて、私が自分を押し殺していたらどうなっていただろうか。「双葉病院 置き去り事件」の取材で、父を亡くした菅野正克さんは「時間が経てば、そのうち忘れてくれるだろうと思ってるんじゃないですかね」と私に漏らした。この静かな叫びを掬うこともできなかった。

 

 

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