長崎新聞は「私企業」だから、批判の対象としては晒されないーー。
共同通信が裁判で、そのような主張をした。
2024年4月26日、東京地裁で開かれた「報道の自由裁判」第4回口頭弁論でのことだ。
地元行政をかばった長崎新聞
この裁判では、元共同通信記者の石川陽一氏が同社を提訴している。
石川氏は、長崎市の海星学園高校でのいじめ自殺事件を追った著書『いじめの聖域』(文藝春秋)で、長崎新聞の報道姿勢を批判した。いじめ自殺を隠蔽しようとした海星学園に歩調を合わせた県を、長崎新聞がかばったからだ。
ところが共同通信は、石川氏が長崎新聞の報道姿勢を批判したことを問題視した。版元は文藝春秋であるにもかかわらず、石川氏に対して重版を禁じた。記者職からも外した。
石川氏は、憲法第21条が規定する「表現の自由」の侵害、記者としての資質を否定された「名誉感情」の侵害、重版を禁止されたことによる「財産権」の侵害に対する損害賠償を求めている。
事実と論評の切り分けは共同通信の記事でも
共同通信が強く反論しているのは、石川氏が長崎新聞を批判するにあたり、長崎新聞の社としての見解を取材しなかった点だ。
石川氏には理由があった。
共同通信の加盟社である長崎新聞に対して批判的な取材をすることで、取材そのものや書籍出版を妨害されかねないと判断したのだ。そのことは、共同通信の増永修平法務部長が石川氏への聴取の中で同調している。(丸カッコ内はTansaが補足)
「まあ、うちと長崎新聞の関係で、それ(=社としての見解を問う取材)ができるかどうかはまた別としてね」
石川氏は、公になっている事実や取材で得た揺るぎない事実をもとに「論評」として書籍に記した。
そもそも、報道機関が事実と論評を切り分けて記事を出すことはよくある。
共同通信も例外ではない。原告側は前回までの裁判で、その点を突いていた。
例に挙げたのは、共同通信が配信した記事だ。2022年12月10日、長崎新聞で論説記事として掲載された。
見出しは「国を危うくする予算膨張/防衛増税1兆円」。岸田文雄首相が2027年度以降に年1兆円強の増税を実施すると表明したことを受けて、掲載された記事だ。
共同通信は岸田首相に対して直接の取材はしないまま、以下のように批判している。
「国を危うくする予算膨張と言わざるを得ない。」
「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題などで支持率低迷に苦しむ首相が、求心力維持へ党内保守派にすり寄ったと見られても仕方なかろう。」
「しかし甘い『皮算用』である点を見逃してはならない。」
「歴史的な安保政策の転換と負担増が説明を欠いたまま既成事実化しようとしている。その国民軽視の姿勢を容認するのか、われわれも問われている。」
報道機関の特権は、私企業だから要らないの?
自分たちは岸田首相に取材することなく、党内保守派に「すり寄った」とまで批判した。一方でなぜ、石川氏が事実をもとに長崎新聞を批判することは認めないのか。
共同通信は、裁判でこう主張した。
「論評の対象について、原告が引用するのは日本国内で最も広く公衆の評価に晒されるべき内閣総理大臣に関する論評である一方、長崎新聞社は一私企業である」
長崎新聞は私企業だから評価に晒されるべきではない、と共同通信は主張しているのに等しい。
岸田首相が日本政府の最高権力者として、批判の対象になるのは当然だ。
しかし新聞社も、批判対象からは逃れられない。単なる私企業ではなく、報道機関だからだ。権力を監視してその暴走を防ぐ役割を社会から期待され、様々な特権が認められている。
例えば、記者会見の参加や、議会・裁判の傍聴で便宜が図られる。取材相手は無償で情報を提供してくれる。
中でも重要な特権は「情報源の秘匿」(news source privilege)だ。
報道機関やジャーナリストが情報源を漏らさないことを徹底して初めて、情報が集まり、人々の知る権利の確保につながる。情報源が萎縮することなく情報提供できるからだ。たとえ司法の場で情報源の開示を求められても、報道機関やジャーナリストはそれを拒否することができる。
共同通信のように、新聞社を単なる「私企業」と位置付ければ、報道機関としての役割と特権を放棄することになるのではないか。
次回期日は6月7日午前10時30分、東京地裁の第611号法廷で開かれる。
長崎新聞社=2023年6月9日、中川七海撮影
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