編集長コラム

50年ぶりの日本語で伝えたメッセージ(83)

2023年10月28日12時44分 渡辺周

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新聞配達所に住み込みながら浪人生活を送り、ようやく志望校の早稲田大学に入学したものの、私は退屈で仕方がなかった。授業は覇気がない教授が何の新鮮味もない講義をしていて、「授業料返せ」と思った。サークルは、旅行サークルの花見に「ただで酒が飲めるよ」と誘われてついていったことはある。だが下級生が上級生に酒を注ぐしきたりがあり、アホらしくなって途中で帰った。サークルというものに入る気が失せた。

そこへ転機が訪れる。サッカーの授業で韓国人留学生と知り合い、日本経済史勉強会に誘われたのだ。

「韓国人やフランス人、中国人の留学生たちと日本経済史の勉強をしているが、日本の歴史がわからないと理解できない。特に近現代史への理解が必要だ。でも勉強会には日本人がいないので詳しい人がいない。参加してほしい」

私を勧誘したのは、韓国陸軍の元大尉で38度線でも中隊長として勤務した人物だ。軍隊人生から心機一転、日本で学び直してビジネスで活躍することを目指していた。謙虚で真剣な姿に敬意を抱き、二つ返事で勉強会に参加することになった。

毎週土曜の午後、勉強会は開かれた。毎回、議論はヒートアップする。特に歴史や軍事の話になると、激論になる。フランス人の留学生が核兵器について「合理的な兵器だ」といった時は、広島で少年時代を過ごし被爆者の話を聞いてきた私としては頭にきて反論したのを覚えている。それぞれの国を背負って議論しているわけではないが、やはり互いが育ってきた国での環境がものの見方に影響していたと思う。

しかし、どんなに激論をしても関係が壊れることはなかった。勉強会が終わったら韓国料理屋で一杯やる。バーベキューやボーリーングをすることもあったし、横浜の寺の住職のところへみんなで話を聞きにいくこともあった。互いが無防備になる時間を共有することで、信頼関係を築いていった。

人間同士のつき合い

私が勉強会の中で最も親しくしていたのは、Sさんという韓国人だ。良き先輩であり親友で、韓国の大学を卒業し兵役も済ませた後、早稲田で学んでいた。日本語学校で知り合った韓国人女性とすでに結婚し、一緒に暮らしていた。私はしょっちゅう自宅におじゃまし、夫妻の韓国料理を食べるようになる。落ち込んで食欲がない日もあったのだが、そんな時でも二人が手料理を出してくれるとモリモリ食べられた。韓国語も教わった。

ある雪の日、Sさんがゴミ出しをする際に転倒し足を骨折する。私の留守番電話に「なべちゃん、足を折っちゃったよ」と困り果てたメッセージが入っていた。タイミングが悪いことに、Sさんの妻は出産を間近に控え病院にいた。私がSさんの身の回りの世話をするためアパートに泊まり込み、妻がいる病院との間を往復することに。Sさんに教えてもらいながらキムチチゲを作り、風呂に入る時はSさんの頭をシャンプーした。私は大学4年で卒業間近。1、2年生の時につまらない授業をさぼり過ぎたことが影響し、取得しなければならない単位がやたらと多い。ああ、こんなことをしていて卒業できるのかと不安になった。

元気な赤ちゃんが無事生まれ、私も卒業できた。しばらく後、なぜか赤ちゃんを連れての夫妻の里帰りに同行することになった。Sさんの実家でお会いした祖父の話が、その後ジャーナリストとして歩むにあたって心に刻まれることになる。

Sさんの祖父は日本語で話をしてくれた。日本の植民地から解放されて50年あまり、日本語を使うのは初めてだったと思う。

彼は若い頃、横暴な日本の官憲に怒り、石を投げつけて抵抗したことがあった。捕まって勾留されてしまうのだが、その際に彼の気持ちを汲み、助け出したのは日本人の弁護士だった。名前を挙げながらその弁護士がいかに素晴らしい人物だったかを語った。

「私を苦しめたのは日本人だったが、助けてくれたのも日本人だった」

私とSさんが静かに話に聴き入っていると、彼はいった。

「これからは国際化の時代だ。君たちは国籍にかかわらず、人間同士のつきあいをしていきなさい」

パレスチナでの暴力の応酬は、長い歴史の中で憎しみ合い、互いの大事な人を失うということを繰り返してきた延長線上にある。簡単に解決策を見出すことはできないだろう。でもだからこそ、解決の糸口はシンプルなところにあるのではないかと思う。

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