編集長コラム

「双葉病院 置き去り事件」の再来か(94)

2024年01月13日14時39分 渡辺周

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2011年の東日本大震災では、東京電力福島第一原発から5キロ弱の「双葉病院」の入院患者と、介護施設「ドーヴィル双葉」の入所者計45人が亡くなった。自衛隊による救出が完了したのは、地震発生から5日後の3月16日。救助を待っている間に患者が衰弱し、次々に命を落とした。

Tansaのシリーズ「双葉病院 置き去り事件」では、自衛隊幹部の失態をはじめ、救助にあたって数々のミスが重なっていたことを明らかにした。

例えば、こんなことがあった。

3月15日早朝、郡山市内で自衛隊の二つの部隊が、患者救出のための合同作戦会議を開いた。関東を拠点にする第12旅団と東北方面隊だ。

ところが、会議の途中で東北方面隊は席を立ち単独で双葉病院に向かってしまう。第12旅団には何も告げずに。両部隊の指揮系統が別々で、東北方面隊に東北方面総監部から「単独で双葉病院に向かえ」と命令が出たからだ。東北方面隊は放射線防護の装備も不十分なまま、救助に出発した。

病院内の放射線量はぐんぐん上がる。放射線防護の備えが不十分な東北方面隊は、救出作業の途中で退却した。44人の患者が取り残され、そのうち35人は病院の奥の療養棟にいた。

後から入れ替わるようにして双葉病院にやってきたのが第12旅団だ。しかし、療養棟の35人に気づかず「救出完了」としてしまった。東北方面隊と情報を共有していれば、防げたミスだ。

自衛隊だけではなく、政府や福島県、地元の大熊町もバラバラ。右往左往しているうちに、患者たちの命を救うタイムリミットが過ぎた。

当時の総責任者は、首相として緊急災害対策本部長を務めた菅直人氏だ。

だが菅氏をはじめ自衛隊幹部、福島県の要職にあった人らは、双葉病院の患者とドーヴィル双葉の入所者の死に対して、誰も責任をとっていない。原発事故下でも救えた命はあったはずだ。

双葉病院に入院していた父を亡くした菅野正克さんが言う。

「誰が責任を取るんだ。『報告が上がってきていませんでした、知りませんでした』とかそんな話はないでしょって」

菅野さんはこうも語る。

「時間が経てば、みんな忘れてくれるだろうと思っているんじゃないですか」

防災服に赤いバラの岸田首相

首相官邸ホームページより

能登半島の震災では、東日本大震災での失敗をふまえて、岸田文雄首相以下、自衛隊や行政は「救える命」を救っているだろうか。

木原稔防衛大臣は、半島で陸路が限られることが自衛隊による救助の妨げになっていると主張している。私には、原発事故であることを免罪符にした「双葉病院 置き去り事件」と重なって見える。

岸田首相は1月5日、新年会をハシゴした。主催はそれぞれ、ホテルニューオータニでは日本経団連など経済3団体、アートホテル日暮里ラングウッドでは労働組合の集まりである「連合」、帝国ホテルでは時事通信社だ。一刻を争う人命救助の最中で、新年会に参加していること自体、私には全く理解できない。

いずれも防災服姿での参加だったが、連合主催の会では白いバラ、時事通信社の会では赤いバラをつけていた。このチグハグさは、岸田首相の頭の中の混乱を象徴していると私は思う。

向こう岸に渡れ

Tansaのメンバーに折に触れてする例え話がある。

川の両岸にそれぞれ、犠牲者と権力者がいるとする。

ジャーナリストは、犠牲者の側の岸にいないといけない。

しかし、犠牲者の側の岸に留まっているだけでは何も変わらない。川を渡って向こう岸に上陸し、権力者が隠しているものが何かを手づかみで取って来る必要がある。

Tansaは能登の震災を取材するにあたり、犠牲者への「寄り添い主義」は取らない。犠牲者を丹念に取材し、痛みを少しでも理解しようと努力するのは当たり前。私たちの役割は、犠牲を生んだ責任の所在を明らかにして追及し、同じ事態を繰り返させないよう尽力することにある。

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