編集長コラム

「天国と地獄」(18)

2022年07月09日20時54分 渡辺周

安倍晋三元首相が、奈良市内で参院選の演説中に銃撃され死亡した。政治家やメディアは「民主主義への挑戦であり、断じて許さない。最大限の言葉で非難する」と怒りの声をあげている。同感だ。

だが、そうした怒りの声をあげるだけでは足らないと思う。

今回の事件を受け、私は元警察庁長官の佐藤英彦氏に16年前に言われた言葉を改めて思い出した。朝日新聞阪神支局の小尻知博記者が1987年に何者かに散弾銃で射殺され、犬飼兵衛記者が重症を負った事件の取材での言葉だ。事件は犯人が不明のまますでに時効を迎えており、警察は捜査しない点を挙げて佐藤氏は言った。

老婆心ながら言っておくが、ホシに近づけばズドンとやられる可能性があるぞ。自分が『こいつは怪しい』と思って近づいている分には用心するからまだいいが、たまたま行ったらそいつがホシだった、知らないうちにホシに近づいていたというのが一番危ないからよほど用心せにゃいかんぞ。渡辺君は黒澤明の『天国と地獄』を見たことがあるか。あの地獄に身を潜めて天国を見上げる山崎努の目な、君からは見えてなくても、あっちからは見えてるんだ

『天国と地獄』は黒澤明監督の映画だ。自身の運転手の息子を誘拐された靴会社の重役(三船敏郎氏が演じた)が、犯人から身代金を要求される。重役の屋敷は貧しい街を見下ろす高台にあり、その街に潜む犯人(山崎努氏が演じた)は屋敷を見上げる。重役からは犯人がどこにいるかは見えない。佐藤氏はこのシーンを引き合いにしたのだ。

佐藤氏の言葉を今回の事件に照らして、二つのことを考えた。

一つは、安倍元首相を警護する警察が「よほど用心」していたのかという点だ。

山上徹也容疑者は、安倍元首相の背後約5メートルまで近づいて銃撃した。その場に居合わせた人たちが撮影した動画には、山上容疑者が銃撃前に周囲を気にしてキョロキョロしている姿が映っている。なぜ警備陣は気づかないのか。1発目が発射された後に安倍元首相をガードしたり、退避させたりもしていない。さらに、2発目が命中し安倍元首相が倒れた後でも、その場にいた聴衆や選挙スタッフを退避させていない。組織的犯行であれば、大惨事を招く可能性があった。用心どころか弛緩していたのではないか。

奈良県警は記者会見で事件当時の警備態勢について「今後の警備に支障をきたす」と明らかにしなかった。責任については「重大に受け止めている」との発言に留めた。選挙運動中での元首相の殺害である。本来なら、中村格警察庁長官が自ら記者会見で謝罪すると共に、選挙期間中の警備に万全を期すと誓うべきだ。事後の対応も緩すぎる。

もう一つは、日本社会は負の感情のマグマが溜まり「地獄」と化しているのではないかということだ。

経済が成長し「1億総中流」と言われた時代はとっくの昔に終わり、貧富の差が拡大した。正社員が減って非正規社員が増えた。中高年になっても生活が安定しない。

若者もなかなか希望を持てない。デフレの中で大学の学費だけはぐんぐん上がり、卒業しても学費返済のローンに追われる。少子高齢化で社会保障費が増大するのに、国家財政は火の車。将来の税負担がどれだけ覆いかぶさってくるか見通せない。

昨日まで私は新潟の佐渡に出張していたが、居酒屋で出会った大工の青年は困り切っていた。せっかく腕を磨いて島で注文建築を手がけるようになったのに、来年10月から始まる消費税の「インボイス制度」でやっていけなくなるという。インボイス制度とは、売り上げ1000万円以下で免税事業者だった事業者が、消費税の負担を余儀なくされる制度だ。

安倍元首相を銃撃した山上容疑者について、かつて海上自衛隊員であったことを強調するメディアが多いが、私はポイントがズレていると思う。確かに銃の扱いに慣れているという面では、自衛隊員であったことは関係しているかもしれない。しかし、それよりも「今年5月までは大阪府内の人材派遣会社に在籍」(7月9日の朝日新聞)していて、今は無職であることの方が気になる。山上容疑者は、7月9日の毎日新聞によると、警察の取り調べに「母親が宗教団体にのめり込んで破産した。安倍氏は団体を国内で広めたと思いこんでいた」と供述しているが、犯行へと追い込んた背景はまだあるのではないか。

どんな事情があっても暴力は容認できないし、苦境に喘いでも犯罪には走らない人の方が多いだろう。

しかし、山上容疑者1人を断罪して済む話ではないと私は思う。噴火という形で噴き出す暴力の地下には、それを遥かに凌ぐ量のマグマが溜まっているからだ。首相経験者2人を含む政府要人が殺害された2.26事件(1936年)の背景にも、農村が窮乏し東北では娘が身売りに出されるという「地獄」があった。

ジャーナリストとしては「地獄」の惨状を伝え、惨状の原因を突き止めるという仕事を粘り強く続けていく。

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