編集長コラム

青春を削るシューカツ(57)

2023年04月29日16時57分 渡辺周

喫茶店で原稿を書いていたものの、どうも集中できない。となりに居合わせた若いふたりの会話が気になる。ひとりは紺のスーツを着た学生で、自分が志望する企業に入った先輩に就職活動の相談をしていた。学生の方はうなだれ、先輩は自分が勤める会社のことを「ウチ」と言いながら雄弁に語っている。先輩の物言いに、なぜか部外者の私がムカついた。学生の方に「気にすんなよ、嫌な思いをしてまでそんな会社入ることないで」と割って入りたくなったが、学生の方に迷惑をかけるだけなのでやめた。

Tansaの学生インターンをはじめ、これまで出会った大学生たちがシューカツで精気を失っていくのを嫌というほどみてきた。多くの日本企業には、在学中に内定を出して、卒業後に一括採用する慣習がある。学生たちは大学3年になるとシューカツに心を占拠され、キャンパスは同調圧力で満ちる。

もちろん、シューカツをすること自体は悪いことではない。やりたい仕事と場所がはっきりしている学生、とりあえずどこかに就職して働きながらその後の展開を考えようという学生もいるだろう。

問題は、シューカツの過程で企業側に選ばれなかった時のことだ。学生たちが落ち込んでしまう。立場の強さを背景に、心ないことを学生に言う面接担当者もいて、そんな時は学生の心が折れる。

だが考えてみてほしい。学生にとって目指す企業は一枚岩に見えるかもしれないが、同じ企業でもそこにいる社員は様々だ。ロクでもない社員だってたくさんいる。そんな人が面接の相手になれば事故に遭ったようなものだ。

そもそも自分が選ばれなかったとして、その原因を自分に求めることはない。自分とは相入れない企業が、自分を選んでくれなくてよかったと考えるべきだ。合わない組織で働き続けるのは地獄だ。

岡本太郎のメッセージ

私が30代の時、朝日新聞で採用面接の担当をしたことがある。私が「この人と一緒に働きたいな」と思って、次の幹部面接に送った若者たちはひとりも入社しなかった。「これはジャーナリスト向きだ!」と確信した一押しの若者は、感性抜群だが生意気。申し送り事項に「緊張のあまり、とっつきにくいところを見せるかもしれませんが、じっくり話を聞いてあげてください」と書いたが落選した。

その後、社長ら幹部と30代の社員が、朝日新聞の生き残り策を語る会に参加する機会があった。社長たちに失礼がないようにするためか、事前に事務局から提案の提出を求められた。私は事務局に出した無難な提案とは別に、密かに用意していた提案を当日ぶつけた。

「採用面接の方法を変えてほしい。今は段階が進むにつれて面接に出てくる人の役職が上がるが、これを逆にするべきだ。最終面接は若手がやるべきだ。これから共に働く時間が長い社員が決定権を持つべきだ」

提案は却下。社内で共有される議事録にすら載らなかった。エライさんから返ってきたのは「渡辺君はそんなこと言って責任を持てるのかね」という答え。それはこっちのセリフだ。5年もしたらいなくなる役員たちが、どうやって責任を取れるのか。実際、当時の役員たちはその後の朝日の窮状に対して、誰も責任をとらないまま去った。

保守的な幹部が組織を危うくする光景は、朝日新聞だけで繰り広げられているわけではない。学生たちが目指すような多くの大企業で、金太郎飴のように同じことが起きていると思う。そんなところの内定を取れなかったところで、学生たちは落ち込む必要はない。やり甲斐だけではなく、安定も望めない。時代は完全に変わったのだ。

芸術家の岡本太郎氏が、著書「美しく怒れ」(角川書店)で青春について興味深いことを語っている。

官僚的だったり、アカデミックな、いわゆるおとなとして固まってしまった人間には、青春は甘美な思い出、または侮恨として、感傷の対象であるかもしれない。

 だがなまなましく生きている人間、激しく現実にぶつかっている人間の心の奥には、いつでも若い情熱が瞬間瞬間にわき上がっているのだ。人間のうちにあって、精神の若さと、肉体の若さは猛烈に交流し、侵入しあっている。そういう流動的な状況が青春なのだ。

「青春」はだからいつでも現在的である。

シューカツに青春を削られるのではなく、卒業した後こそ青春を謳歌するにはどうしたらいいか。立ち止まって考えてみたらどうだろう。

編集長コラム一覧へ