消えた核科学者

カーン博士との共通点(30)

2023年12月20日9時27分 渡辺周

竹村達也は失踪するまで、どのような人生を歩んできたのか。

失踪時の1972年3月時点で36歳なので、生まれは1935年(昭和10年)か1936年(昭和11年)だ。

同級生らを取材した結果、足跡をたどれるのは中学生からだ。大阪市阿倍野区にある市立文の里中学を卒業後、名門高校として知られる府立天王寺高校、大阪大学工学部へと進学した。

竹村が阪大の工学部で学んだのは「冶金(やきん)」である。冶金とは、金属を加工したり、鉱石から金属を取り出したりする技術だ。竹村は動燃で、核燃料に必要なウランと金属を混ぜた合金の研究を手掛けたが、阪大時代に学んだことが基礎になっていた。

冶金を学んだ核科学者は少なくない。ウラン鉱石からのウランの取り出しや、ウラン濃縮のために必要な遠心分離機の開発に冶金の知識が必要だからだ。

国際的な「核の闇市場」を築いたパキスタンのカーン博士、アブドゥル・カデル・カーンもその一人だ。

パキスタン最大都市のカラチにある大学を出た後、オランダの大学で冶金を学んだ。その後、ウラン濃縮のための遠心分離機を開発していたオランダの会社に就職。そこの技術を盗み、パキスタンでの核開発に邁進していく。カーン博士がパキスタンに帰国して、核兵器の開発に本格的に着手したのは1976年。竹村が動燃の独身寮から失踪してから4年後のことだ。

戦慄の告白

2004年2月、カーン博士がパキスタンの国営テレビで、ある告白をした時は世界中が戦慄した。北朝鮮やリビア、イランに核兵器に使える技術や機器を流していたと述べたのである。核保有国の敵国インドに対抗するため、核兵器を開発したカーンは国民的英雄だった。しかし自国の防衛のためだけに仕事をしていたわけではなかったのだ。

国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長は、カーン博士が告白した翌日、「カーン博士は氷山の一角だ。核の闇市場は巧妙に活動している」と語った。

日本では、カーン博士の告白があった年の12月、参議院で「北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会」が開かれ、カーン博士のことが取り上げられた。拉致問題を審議するのが目的の委員会ではあるが、北朝鮮に日本が対処する際は核兵器開発の問題がセットでついて回る。

外務大臣の町村信孝は次のように述べている。

「日本も例のパキスタンのカーン博士による証言を含めて関連情報の収集に努めているところ」

2009年6月には、衆院外務委員会で外務副大臣の伊藤信太郎がこう答弁した。

「カーン博士は、(北朝鮮を)数次訪れていまして、北朝鮮を初めとするパキスタンの国外への核関連技術の輸出に関与したことを明らかにした」

「我が国としては、いかなる形であれ北朝鮮等に対して核関連技術の流出があったことは、国際社会の平和と安定また核不拡散体制を損なうもので、極めて遺憾」

カーン博士は1936年生まれ。竹村とほぼ同い年だ。同時代に冶金を学んだ二人の科学者の間に、北朝鮮という国家の存在が見え隠れしているのである。

拉致問題の解決を掲げる自民党本部(2020年5月15日、東京都千代田区、撮影=友永翔大)

阪大で冶金を学んだ同級生たちは

竹村はどんな学生時代を送ってきたのか。動燃の同僚や部下たちには、竹村の印象は薄かったが、大阪大学の同級生たちは冶金という具体的な研究課題を共に追っている。竹村の素顔を知っているかもしれない。

私は大阪大学工学部の同窓会「社団法人大阪大学工業会」が作成した名簿を入手した。竹村と同じ1958年に冶金学科を卒業したのは34人。製鉄会社や化学メーカー、大学教授たちが名を連ねていた。名簿は1996年時点のものだが、逝去した同窓生を除けば、竹村だけが住所も職業も空欄である。

同窓生のうち、二人に会うこができた。

一人は、兵庫県明石市に住んでいた。

この同級生の男性は、卒業してから初めて開かれた同窓会で幹事を務めた。卒業後25年、竹村が失踪してから11年が経った1983年のことだ。関西在住の同窓生が多いことから神戸で開いたが、竹村の連絡先がわからなかった。竹村の実家の住所と連絡先を知っている人もおらず、どうしようもなかったという。

その後も同窓会は開いているが、竹村の行方は相変わらずわからない。どこで何をしているのか、心配の声が上がるようになった。

数年前、阪大の同級生たちに大阪府警から電話がかかってきた。「竹村が北朝鮮に拉致されているかもしれない」と知らされ、同窓会ではその話題が上がった。天王寺高校の同級生たちに電話があったのと同じ頃だ。

冶金学科のクラスで、大阪から神奈川県川崎市まで日本鋼管の見学に行ったこともあった。だが動燃のOBたちと同様、阪大時代の同級生たちにも竹村と親しい人はいなかった。印象も薄かったという。

悪い印象もない。一緒に日本鋼管に見学に行った時にJR浜川崎駅で写した写真や、工学部の学生たちの集合写真を見せてくれた。動燃時代の写真に比べて顔がほっそりしているが、竹村の柔和な表情は同じだ。

この同級生の男性は、卒業後にも竹村に会っていた。

卒業して8年後、1966年2月のことだ。男性は当時、川崎重工の技術研究所に勤めていた。川崎重工は、茨城県東海村にある日本原子力発電の原子炉を手がけていたが、蒸気発生器に不具合が生じたため調査に赴いた。竹村が勤務する動燃も東海村にある。男性は「これからは原子力を勉強せなあかん時代や。竹村君はどんなことをしてるんかいな」と竹村のもとに立ち寄った。

ただ、会話の内容や竹村の様子を覚えていない。50年以上前でも会った相手の名刺は今でもしっかりファイルに整理して持っている。東海村への出張で会った人たちの名刺も持っているが、竹村の名刺だけがない。会ったことは自分がメモしている記録から確かだ。男性は「竹村君は名刺をくれへんかったってことやろな」と言った。

一緒に歩いた松林

阪大時代の同級生のもう一人は、大阪市内に住んでいた。その男性は冶金学科のクラスだけではなく、クラスを四つに分けて専門的な研究をするためのゼミも同じだった。分野は「粉末冶金」。粉状の金属を圧縮して固めたものを、高音で焼いて形を整える技術だ。専門分野という共通項があれば、竹村とは密な関係があるのではないか。しかもゼミは竹村とこの男性を含めた4人だけだ。

「僕は住吉高校を出て阪大に入学したんだが、竹村君は天王寺高校でしたね」

男性は私を部屋に招き入れて、ソファーに腰をおろすと、そう言った。

しかし、竹村が失踪していたことは知らなかった。他の同窓生にかかってきた大阪府警からの電話もないという。4人しかいない竹村と同じゼミの出身で、健在な人物に、なぜ大阪府警は接触していないのだろうか。天王寺高校の同級生たちへの聴取を電話で済ませていたことと合わせ、大阪府警の捜査は杜撰だと感じだ。

「大学では、30人クラスで竹村君と一緒でした。卒業研究はさらに4講座に分かれるんですが、それも私は竹村君と同じです。同じ指導教授のもと、竹村君を含め4人で卒業研究に打ち込みました」

竹村の人物像については、こう言った。

「友達付き合いが少ない、おとなしい人でしたね。酒も飲まなかったんじゃないかなあ。交際している女性がいたなんてことも、まずなかった」

卒業後、男性は日立製作所に就職した。竹村と同じ茨城県にある会社だ。そこで原発の燃料を製造する研究をした。

就職して間もない日曜日、この男性も竹村がいる東海村を訪ねたことがあった。

「他の同級生はほとんど関西で就職したから、関東組は僕と竹村君だけだったんですよ。それで会いに行って。昼間に動燃近くの松林をぶらぶらと二人で散歩して。特に何か話をするわけでもなく。彼とはそれっきりだね」

松林は、今も日本原子力研究開発機構(動燃の後進の組織)の敷地の周囲に残っている。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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