消えた核科学者

部下の胸を熱くさせた仕事ぶり(31)

2023年12月27日18時20分 渡辺周

1972年に失踪した竹村達也のことを、竹村の母校である大阪府立天王寺高校や大阪大学の同級生たちはよく覚えていなかった。目立たない存在で、あまり印象がないという。

しかし、阪大の工学部を卒業して1958年4月に原子燃料公社(動燃の前身)に入社してからは一目置かれる存在になっていく。私生活では相変わらず人付き合いが少なく、独身寮では麻雀大会や飲み会に参加することもなかったが、仕事には没頭した。プルトニウム燃料の製造では欠かせない存在となる。

研究ノートを広げながら

動燃のプルトニウム燃料部で竹村の部下だったひとりは、竹村の「職人」としての真剣さに心を打たれたことがある。

ある日、その部下は竹村にプルトニウムとウランの固溶体について、どうやれば良質な固溶体ができるかを質問した。固溶体とは、複数の元素が均一に混ざり合った状態の固体のことだ。

竹村は自分の席の向かい側に部下を座らせ、「プルトニウムとウランの酸化状態が進み過ぎても還元状態が進み過ぎても、固溶体はうまくできない」などと丁寧に教えてくれた。竹村は自身の研究ノートを広げながら、熱意を込め、一つずつ説明した。竹村の席には英語の専門書がたくさん立てかけてあった。

「本当に仕事に真剣に取り組んでいるんだなあ、自分みたいな新人によくこんな丁寧に説明してくれるなあと、胸が熱くなったのを思い出すよ」

長崎の原爆で使われたプルトニウム

竹村が研究したプルトニウムは、原発でウラン燃料を燃やした際にできる物質だ。そうしてできたプルトニウムがさらに原発の燃料になる。

資源に乏しい日本は、核燃料のリサイクルを実現することでエネルギーの自給率を高めようとしていた。竹村は国策を担う重要な人物だったのだ。

プルトニウムは当時、研究対象としてはまだ歴史が浅い物質だった。1940年、米国のバークレー研究所でグレン・シーボーグ博士らが初めて発見し、世界各国の科学者たちが開発にしのぎを削るようになった。

動燃での初期のプルトニウム燃料開発についてまとめた「プルトニウム燃料開発十年の記録」では、プルトニウムが秘める可能性について、シーボーグ博士の著書での言葉を引用している。

「プルトニウムの物語は、科学の歴史においても、最もドラマチックなものの一つである。この異常な元素は、多くの理由から化学元素の中で独特な地位を有している。それは合成された元素であり、大規模な錬金による転換という錬金術師の夢を最初に実現した画期的事実である」

だがシーボーグ博士は、莫大なエネルギーを生み出すプルトニウムに「錬金術師の夢」を見た一方で、その危うさも説いている。

「このプルトニウム元素が後に『マンハッタン・プロジェクト』とよばれる特殊組織のもとに工業的製造と軍事目的への利用とその開発が進められ、発見後2年の1943年、最初の金属プルトニウム10数μgがシカゴ大学において得られ、さらに1944年3月に1日数グラム規模の分離を可能とし、ロスアラモス研究所で原爆製造の研究が進められ、長崎への悲惨な道程を歩んだ」

プルトニウムは発見されて5年後の1945年、長崎に投下された原爆「ファットマン」の材料として使われたのだった。シーボーグ博士は、プルトニウムが常に軍事利用と表裏一体であることを踏まえて「人間が知っている最も危険な毒物」とまで述べた。

米国立アルゴンヌ研究所へ

竹村は研究者として順風の日々を送り、世界最先端の核技術を学ぶ機会を得る。米国の国立アルゴンヌ研究所への留学である。アルゴンヌ研究所は第2次大戦後の1946年、米国原子力委員会の要請で設立された。エネルギー省が管轄する。

アルゴンヌ研究所の前身はシカゴ大学の冶金(やきん)研究所だ。主導したのは、イタリア出身のエンリコ・フェルミだ。1942年12月2日、シカゴ大のフットボール競技場に設けた世界初の原子炉でウラン核分裂を成功させたことから、「原子力の父」と呼ばれる。シカゴ大冶金研究所の成果は、マンハッタン計画へと引き継がれ、フェルミはロバート・オッペンハイマーらと共に原爆開発で中心的な役割を果たした。

アルゴンヌ研究所に日本から最初に留学したのは、東京大学工学部助教授の大山彰だ。1955年のことで、国費による留学だった。大山は後に動燃の理事や、原子力委員会委員長代理を歴任する。以後、日本の原子力研究を担う人物がアルゴンヌに送られた。竹村は原子力の世界のエリートとして名前を連ねていたことになる。

原子力施設が集まる東海村には、アインシュタインをキャラクターとして使っている「原子力科学館」がある=2023年7月28日、渡辺周撮影

世界から注目された東海村

竹村達也がアルゴンヌ研究所から帰国後の1965年、プルトニウム燃料開発施設が茨城県東海村に完成する。真新しいその施設には、国際原子力機関(IAEA)の東京総会に出席していた世界各国の来賓が視察に訪れた。

動燃の「プルトニウム燃料開発十年の記録」には、この時のことが書かれている。

「施設の完成式が科学技術庁はじめ地方自治体関係者多数参列の中に盛大に挙行された。特に完成式には原子力委員長代理の故石川一郎が式壇に立たれ、プルトニウム利用開発への限りない努力をされたことは核燃料サイクルの論議がややもすれば空転し、抽象論議に走る昨今の世情からみればまさに先見の啓示であったと考える」

石川一郎とは初代経団連会長。1956年の原子力委員会発足時に、ノーベル物理学省を受賞した湯川秀樹らと共に原子力委員会委員に就任した人物だ。

来賓の中には、米国の原子力委員長であるシーボーグ博士の姿もあった。1940年にプルトニウムを世界で初めて発見した、あのシーボーグ博士だ。案内役は竹村の直接の上司で、プルトニウム燃料開発室長の中村康治が務めた。

「プルトニウムの発見者として知られる当時の米国原子力委員会委員長のシーボーグ博士が、施設の内部まで歩を運び、当時案内役の中村康治室長の説明に逐一耳を傾ける姿はきわめて印象に残る光景であった」

一線の研究員たちも、シーボーグ博士が東海村にやってきた時の思い出話を寄せている。竹村と同じプルトニウム燃料開発室に所属していた研究員たちだ。「十年の記録」が発行されたのは、竹村が1972年に失踪してから4年後のことなので、竹村の手記はないが、この時の動燃の研究者たちのシーボーグ博士への敬意が表れている。

「ずっとあとになって、偶々ジュネーブでシーボーグ博士にお会いする機会があり、あの時プル燃で博士の写真を撮らせてもらったことなどを話すと、博士はプル燃訪問のことを良く憶えておられ、日本ではじめてプルトニウムを扱った施設だったねという意味のことを話され、横にいたシュレンジャー氏(現官房長官)に紹介されたことなどを思い出す」

絶頂

プルトニウム燃料開発施設が動燃に完成した翌年の1966年、竹村にとっての晴れ舞台が訪れる。米国からから購入した酸化プルトニウム240グラムが届き、プルトニウム燃料の試験を開始したのだが、その際に中心的な役割を担ったのだ。

この時のことを動燃の「プルトニウム燃料開発十年の記録」では、アルゴンヌ研究所に留学した竹村ら米国帰り4人の名前を列挙。「既に米国プルトニウム取扱訓練を経て来た経験者グループ」と呼んで賛辞を送る。

「これら経験者の操作技術を見聞きしながら、未経験者が逐次、経験を得てゆく方法によって、何らトラブルもなく、かつプルトニウムに対する必要以上の危惧もなく、操業をスタートさせることができた」

竹村の元部下は言う。

「竹村さんはアルゴンヌで最先端の技術を学んできた。当時の留学は単なる勉強ではなく、業務命令なんだ。今の留学とは使命感が違う。みんな竹村さんが学んできたことを知ろうとしていた。日本のプルトニウム燃料のパイオニアだったね。アルゴンヌなど米国に留学し、プルトニウムの取扱訓練を受けた経験のある人たちは当時4人。『プルトニウム四天王』だった」

竹村は、核科学者として絶頂にあった。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

拉致問題の真相を追求する取材費のサポートをお願いいたします。

 

北朝鮮による拉致問題は、被害者やその可能性がある家族の高齢化が進んでいるにもかかわらず、一向に進展がありません。事実を掘り起こす探査報道で貢献したいと思います。

 

Tansaは、企業や権力から独立した報道機関です。企業からの広告収入は一切受け取っていません。また、経済状況にかかわらず誰もが探査報道にアクセスできるよう、読者からの購読料も取っていません。

 

サポートはこちらから。

消えた核科学者一覧へ