消えた核科学者

公安の監視下で失踪(32)

2024年01月10日14時37分 渡辺周

竹村達也は大阪大学を1958年に卒業後、新卒で茨城県東海村の原子燃料公社に入社した。プルトニウム燃料の製造でエースとして活躍する。米国最先端の原子力研究所「アルゴンヌ研究所」に留学して習得した知識を生かした。

大学時代は目立たない存在だったが、職場では同僚から「プルトニウム四天王」とまで呼ばれた。竹村を含め米国留学組の4人が、プルトニウム燃料の製造をリードしていた。

日本政府はプルトニウム燃料の製造に関与を強めていく。1967年、原子燃料公社を「動力炉・核燃料開発事業団」(動燃)へと改組し、首相直轄の組織にした。当時の首相は佐藤栄作だ。

竹村が失踪したのは、それから5年後の1972年。政府にしてみれば、首相直轄組織のエースを失ったことになる。だが警察長官を務めた国松孝次、内閣情報調査室長だった大森義夫は、竹村の失踪について何も知らないと答えた。本当ならば、あまりに杜撰な警備だ。

拉致が知られていない時代に所轄の刑事がなぜ

竹村達也が北朝鮮に拉致されたという疑惑の始まりは、茨城県警勝田署(現・ひたちなか署)の刑事の言葉にある。竹村が失踪した1972年当時、中年の男性刑事が東海村の動燃に聴取にやってきた。聴取はプルトニウム燃料部の会議室で行われ、竹村の部下に「竹村について何か知らないか」と聞いてきた。聴取が終わった後、部下が「何があったのか」と尋ねたところ、刑事が言った。

「北に持っていかれたな」

この言葉を聞いた部下は、科学者らしく事実に忠実な人物だ。私が再三取材しても証言がブレることはない。

しかし、1972年といえば拉致問題は全く知られていない。メディアに「拉致」が登場するのは1980年のサンケイ新聞だし、日本政府が北朝鮮による拉致事件の存在を認めたのは1988年の国会だ。なぜ動燃に聴取に来た刑事が、拉致問題を認識していたのか。

しかもその刑事は県警本部ではなく、勝田署の所属だ。地元署は国際事件ではなく、管内の事件を取り扱う。

「過激派が狙ってくるかもしれない」

ヒントをくれたのは、動燃で労働組合の活動に取り組んだ元職員だ。彼は中学卒業後、日雇いとして動燃に勤め、その後、正規職員になった。

「動燃は核物質を扱う。テロリストに狙われたら大変だっていうことで、茨城県警と動燃は神経を尖らせていたんです。まあ当時は『テロリスト』って言葉はあまり使われてなくて、『過激派集団』って言葉を使っていたね」

「過激派が狙ってくるかもしれないから、『核物質防護』という口実で組合活動を監視していましたよ。動燃の総務部と茨城県警の勝田署が一緒になってやってたね」

例えば、こんなことがあった。

ある組合員が茨城県外に出張に行く。するとその組合員の宿泊先の旅館に勝田署の刑事が訪ねてくる。旅館のロビーで刑事は組合員に言う。

「私と交際してくれませんか、情報を提供してもらえませんか」

取材に応じてくれた元職員も、勝田署の刑事に監視された。家に訪ねてきたり尾行されたり、そういうことがしょっちゅうあったという。元職員は笑って言う。

「私は絶えず刑事につきまとわれましたが、相手にしませんでしたよ。来ても『何しに来た、この野郎』って追い返した。『帰らなければ不法侵入で法律違反になるぞ』ってね」

それでも勝田署の刑事はあきらめない。元職員が交通事故で足を骨折した時のことだ。自宅に刑事が「お困りでしょう」と訪ねてきて、1冊の本を差し出した。交通事故に遭った時の対応に関する本だった。よく見ると、勝田署の隣にある公立図書館のハンコが押してある。刑事は図書館で借りてきた本を持ってきたのだ。この元職員は「図書館から借りて来た本を、警察官が又貸ししていいのか。まずいだろう」と言って追い返した。

竹村と同じプルトニウム燃料部にいた「エリート」たちも、動燃を取り巻く当時の「ピリピリした雰囲気」を語る。あるOBは言う。

「動燃で何か失敗が起きるでしょ。そんなとき、動燃の敷地内からフェンス越しに敷地の外にいる人物に何か渡しているやつがいるんですよ。あれ大丈夫か、スパイじゃないかなんて心配していましたね」

当時は資本主義と社会主義が鋭く対立する冷戦の最中である。世界各国が核兵器の開発にしのぎを削っていた。茨城県東海村は単なる一地方の村ではなく、動燃という日本の国策を背負った組織を抱える要衝なのだ。

勝田署は動燃を管内に持つ警察署として、テロやスパイの侵入を防ぐ緊張感の中に置かれていた。北朝鮮による拉致という国際犯罪を、竹村が失踪した時点で意識していたとしても何ら不思議ではない。むしろ当然である。

警備が厳重な旧動燃の後身・日本原子力研究開発機構(2020年4月4日、撮影=友永翔大)

動燃総務部の「監視リスト」

核を扱う施設を「過激派」から守るという理由で、動燃職員の監視をしていたのは茨城県警だけではない。当の動燃が職員を監視していた点は重要だ。動燃は単なる研究機関ではないのである。総務部門がその役割を担った。

ここに、動燃の総務部門が職員を監視した記録文書がある。

文書では、動燃の職員のうち「活動家」とみなされた約130人を、共産党員や労働組合の活動家かで分類。その上で「危険度」を「A」、「B」、「C」、「観察」の4段階に分けて判定している。判定の根拠には、労働組合の役員選挙での対応、職場での人間関係などを挙げていた。

職員を分類する際の情報の出処としては、次の4つを挙げている。

「良識派」

 

「勝田署」

 

「公安調査庁」

 

「県警」

良識派とは、動燃内で総務部門の側に立つ職員のことだ。組合活動などに熱心な職員にしてみれば、総務部門に情報を渡す「スパイ」ということになる。

県警とは、勝田署を指揮監督する茨城県警本部のことだ。

興味深いのは、公安調査庁が入っていることだ。同庁は1952年の破壊活動防止法に基づいて発足した組織で、テロを未然に防ぐための情報収集をしている。同庁は組織の活動をホームページで次のように説明している。

「過去に暴力主義的破壊活動を行った団体等に対する規制処分を視野に入れた調査を進めるとともに、収集・分析した情報を関係機関へ提供して政府の施策推進に貢献することで、“縁の下の力持ち”として、我が国の民主主義体制擁護の一翼を担ってきました」

公安調査庁がテロを防ぐのに役立つ情報収集をできていたのか、情報収集の手段が法を逸脱していないかという問題点はある。

だが私が着目したのは、公安調査庁には国の組織として「収集・分析した情報を関係機関へ提供して政府の施策推進に貢献する」役割があるということだ。

動燃の総務部門は、警察、公安調査庁と協力して組織内にスパイやテロリストが浸透するのを防ぐために目を光らせていたのだ。

竹村達也は、こうした監視体制の中で失踪したことになる。

私は動燃の職員名簿を入手した。警察、公安調査庁とともに、動燃内の監視を総務部門で経験した人物を探すためだ。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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