竹村達也の失踪について、「何も知らない」という旧動燃(現・日本原子力研究開発機構、略称JAEA)の元総務系エリート。竹村が同時期に動燃に在籍していたことすら、彼は認識していないと語った。
彼は動燃で、理事長の秘書役や総務部長など要職を務めた。動燃は公安当局と共に、テロリストに核物質が渡らないよう職員を監視していた。竹村はプルトニウム製造係長を務めた人物だ。そんな人物の失踪は、動燃にとって重大事件であるはずだ。それをまったく知らなかったという。
動燃という組織は一体どうなっているのか。
政治家のパーティー券を買いに
元総務系エリートは私の取材に対し、当たり障りのないことを言っているだけのように思えてきた。公にはできないことが動燃にはいろいろあって、竹村の拉致疑惑もその一つなのではないか。だから「知らぬ存ぜぬ」で通そうとしているのではないか。
私は思い切ってこう聞いてみた。
――動燃には機密事項が多い。機密事項を使って裏仕事をするような人はいるんですか。
すると彼は笑いながら「総務部長、ですね」と答えた。総務部長は自身が務めた役職である。彼は2人の理事長に「お仕えした」ことに自負を抱いており、秘書役の仕事についても語った。
「例えば新しく着任なさった理事長にどこまで申し上げていいかとかね。人事のマターでもここまで申し上げていいかとか。これはイノセント(知らせないでおく)にしとこうとか」
興味深いのは、話が政治家と動燃との蜜月に及んだことだった。私は「動燃で政治家とのパイプ役を務めたのは誰ですか」と尋ねた。
「総務担当理事と総務課長です。私も随分行きましたよ、パーティー券買いに」
特に動燃が親しかったのは、地元選出の自民党政治家、梶山静六とその跡を継いだ長男の弘志だという。
「梶山さんの息子さんのことは、よく知っています。僕んちに遊びにきましたよ。偉ぶらない、いい方でね。静六さんにもよく会いました」
梶山静六は茨城県議会議員を務めた後、1969年に自民党から衆議院議員に初当選し、当初は首相の佐藤栄作の派閥に所属した。自民党の幹事長を務めるなど政界の実力者として知られた。
北朝鮮による拉致問題では重要な役割を果たした。国家公安委員長を務めていた1987年、日本政府として初めて拉致問題の存在を認めたのだ。1978年に立て続けに起きた男女の行方不明事件について、1988年の国会で共産党の橋本敦から問われたとき、こう答弁している。
「昭和53年(1978年)以来の一連のアベック行方不明事犯、おそらくは北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であります。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性に鑑み、今後とも真相解明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、ご家族の皆さん方に深い御同情をもうし上げる次第であります」
拉致問題を日本政府として初めて認める答弁をしたのが、動燃と深い関係にあった梶山静六であった。それは偶然の一致だろうか。
こんなふうに考えることはできないだろうか。
連続アベック失踪事件を端緒に、北朝鮮による拉致疑惑がメディアで取り沙汰されるようになった。報道を待つまでもなく、日本政府はかねてからアベック失踪事件を含め北朝鮮による拉致の疑いがある事件を把握していた。警察と公安調査庁に動燃を監視させていたので当然、竹村の拉致疑惑も把握している。
だが米国との関係をはじめ、核不拡散に関する国際関係にハレーションを起こす恐れが強い。となると、竹村の失踪事件については口が裂けても言えない。動燃内部のことをよく知り、警察を統括する国家公安委員長に就いていた梶山は、アベック事件など一部だけを北朝鮮による拉致濃厚と認めた。
だが梶山親子と親しかったというこのOBに、梶山静六が政府として北朝鮮による拉致疑惑を初めて認めた時の国家公安委員長であることを伝えても「あ、そう?」と驚いた様子を見せただけで特に何の見解も示さなかった。
茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構前のバス停(2020年4月4日、撮影=渡辺周)
報道課が「初耳」?
結局、動燃の総務畑でエリートの道を歩んできたOBからは、竹村達也失踪についての有力な情報は得られなかった。取材に対して終始冷静に応じ、物腰も柔らかだった。取材中、「今日は暑いですね、まあどうぞ」と言って、自分で冷たい麦茶まで入れてくれた。
失踪の事実を告げても慌てる様子はなかった。そして取材の最後にはこう言った。
「僕を可愛がってくださった諸先輩もその話をしてくれたことはない」
「ご苦労様です。お役に立てなくてすみません。こんなところでよろしければまたお越しください」
だが私には、彼が本当のことを言っているとは思えなかった。その役職を考えても不自然だからだ。
私は日本原子力研究開発機構(JAEA)を取材することにした。動燃の後進組織である。
まず、JAEA本社に電話した。広報部報道課副主幹の荻谷将之が対応した。私が電話口で失踪事件の概要を説明し、北朝鮮に拉致された疑いがあることを告げると、3秒ほど沈黙した。
「ああ、そうなんですね」
竹村のことは初耳だという反応だった。竹村は警察庁の「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」に掲載されているにもかかわらず。
氏名 竹村達也(たけむら たつや)
年齢 36歳(行方不明当時)
住所 茨城県那珂郡
職業 公務員
身体特徴等 身長165センチメートル 体重55キログラム
昭和47年(1972年)3月1日、茨城県下の勤務先を退職した後、行方不明となっています
失踪場所は「茨城県那珂郡」、職業は「公務員」としか書かれておらず、動燃の職員だったことが伏せられてはいるが、報道機関から問い合わせがあったらどうするのか。現に私が問い合わせている。報道課の副主幹が「何も知りません」では済まされない。
ただたとえ荻谷が初耳だったとしても、報道課としてJAEAの関係各所に確認すれば竹村の情報があるはずだ。私は会って確かめることにし、面会取材の約束を取り付けた。
入社日と退職日だけ確認
2020年3月、東京都千代田区にあるJAEAの東京事務所に出向いた。19階に上がると広報部次長の木村正実と、私の電話に対応した副主幹の荻谷将之が会議室で応対した。質問に答えたのは、主に次長の木村だ。
私は、竹村達也が東海村の動燃独身寮「箕輪寮」から1972年に失踪し、動燃に茨城県警勝田署が聴取に来て「北に持っていかれたな」と言ったこと、警察は竹村を北朝鮮による拉致の疑いで公開捜査していることを伝えた。
ところが、警察庁のホームページに「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」として、竹村が顔写真と共に掲載されていること自体、私から問い合わせがあるまで知らなかったという。
逆に「公開捜査はいつからですか」と質問してきた。私は、第2次安倍政権の2013年に公開捜査になったことや、その際の国家公安委員長は自民党の古屋圭司であることを説明した。
公開捜査していることすら知らなかったというのは、明らかにおかしい。警察が公開捜査をする以上、竹村の勤め先だったJAEA(当時は動燃)には確認をするはずだ。実際、大阪府警の外事課は、竹村の同級生たちに、竹村が動燃でプルトニウムを扱う仕事をしていたから北朝鮮による拉致を疑っていると告げている。
JAEAには取材にあたって、竹村の在職中のことや失踪後の動燃の対応について教えてほしいと事前に伝えてある。だがまともに調べていないようだ。
――結局、何が分かったのか。
「かなり昔の話で、竹村さんは当時36歳ですから、84、5くらい。同僚を含めて当時関わった方々を我々としては確認できない状態なんです。竹村さんという方が動燃にいて、昭和47年(1972年)3月31日に退職したことは確認できました。当時勝田署が来られてとかいうお話を渡辺さんからいただきましたが、残っている人間では情報がなくてですね」
――竹村さんが入社してから退職するまでに、どういう部署を歴任して、どんな仕事をしていたのか。
「国の研究機関で独立行政法人なので、独法の個人情報保護法に基づかなければなりません。本人の同意なしに軽々にお話することはできません。人事記録上は残っていますが、我々も見られないんです」
それは回答しない理由にはならない。独立行政法人は、個人情報保護法と同時に、情報公開法の対象でもあるからだ。しかも警察は公開捜査している。個人情報保護法を盾にするのは「逃げ」でしかない。そもそも、竹村は失踪しているので同意など取りようがない。それをいいことに、JAEAは個人情報保護法を言い訳に利用しているのだ。
――警察は公開捜査をしているんですよ。JAEAに失踪した記録は残っていないのか。
「人事部門にも確認したんですけど、失踪したこと自体が残っていない。47年(1972年)の記録を確認したところ、結果としては残っていない」
――そんなことがあり得るのですか?
「失踪は退職の後なので追っていません。あくまでうちにいる時の記録しか分かりません。どこの会社さんもそうだと思いますが、退職したところで終わると思うんですよ。個人情報に関わることですし」
だが失踪について、警察は「昭和47年(1972年)3月1日、茨城県下の勤務先を退職した後、行方不明となっています」と記している。
つまり、失踪と退職はほぼ同時だ。退職したから知らないでは済まない。実際、勝田署の刑事は失踪後に東海村の動燃の事業所に聴取に来ている。
竹村の失踪すら把握していないというが、竹村は核技術を持った人材であり国家の安全に関わる。そんな人物が失踪したとなれば、政府や核兵器の不拡散に取り組む国際原子力機関(IAEA)に報告する必要があるのではないか。米国の国立アルゴンヌ研究所への留学経験もあるので、米国とも情報共有するべきだろう。その点を聞いた。
「今であれば、我々の技術は機密情報でもあるので、規定に則らないと罰則があります。ただ、当時がどうなっていたかは分かりません」
最後に広報部次長の木村正実が言った。
「竹村さんが失踪した昭和47年(1972年)は、私が生まれて数年しか経ってない。副主幹の荻谷なんて生まれてない頃です。我々は平和な時代に仕事をさせていただいているんですね」
私が取材で出会った動燃OBの科学者たちは今も「北朝鮮がミサイルを発射するたびに『自分たちの技術が竹村さんを通じて使われていたらどうしよう』」と心配している。昔のことだと片付くような話ではない。私はOBたちの思いを伝えた。
その上で、この日に十分回答できなかったこと、再度調べれば分かるかもしれないことについて質問事項を残して、後日に回答するよう求めた。
=つづく
(敬称略)
消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。
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