消えた核科学者

妻の直感(36)

2024年02月07日9時15分 渡辺周

プルトニウム燃料の製造を担った竹村達也の失踪を、動燃の後身組織である日本原子力研究開発機構(JAEA)は把握していないという。

しかし、「把握していない」という言葉はにわかには信じがたい。1995年12月に起きた高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故の情報を、動燃は隠蔽した過去があるからだ。「もんじゅ」は、稼働させながらプルトニウムを増やすことができる原子炉で、エネルギー自給を目指す日本政府が動燃に開発させていた。

1995年の事故情報の隠蔽について、動燃で内部調査を担当したのは総務部次長の西村成生(しげお)だ。

内部調査の結果について、西村は1996年1月12日、記者会見で説明した。その翌日未明、西村の遺体が東京都中央区内のホテルの駐車場で発見される。

1日に3回開かれた記者会見

「もんじゅ」で事故が起きたのは、1995年12月8日午後7時47分。冷却剤に使っていたナトリウムが配管から漏れるという事故だった。動燃は、翌午前2時に現場を撮影した「2時ビデオ」を持っていた。にも関わらず、その存在を隠した。その代わり事故後14時間経ってからの現場を撮影したビデオを、事態の重さをうかがわせる部分をカットした上で公開した。

しかし、すぐに2時ビデオの存在が露呈する。動燃は窮地に立たされる。

西村の調査により、2時ビデオの存在を、「もんじゅ」の職員だけではなく、本社の一部の職員も当初から知っていたことが発覚する。事故翌日の9日、「2時ビデオ」は本社に届けられ、本社の職員たちはそれを見ていた。動燃本社にも2時ビデオの存在を隠した責任があることになる。

西村のその調査結果は、事故から2週間あまりの12月25日に動燃理事長の大石博に報告された。

ところが動燃は、この結果をすぐに公表しない。年明けの1996年1月12日になってようやく記者会見を開いた。

記者会見は、午後4時20分から始まった。だが広報担当の理事が出席したものの、十分な説明ができない。記者たちは理事長の大石を呼ぶよう動燃側に要請した。

2回目の記者会見は大石が出席して、午後7時30分から始まった。記者は「2時ビデオがあることを本社は事故直後に把握していたのではないか」という点を質問した。

これに対し大石は「その辺は、私も昨日の夕方聞いた」と答えた。嘘だ。大石は西村の調査結果の報告を前年の12月25日に聞いている。

総務部次長の西村は窮地に立たされる。大石の説明が不十分だと記者たちから不満が出て、この日3回目の記者会見を西村が中心になって開くことになったからだ。西村にしたら、自分が調査した結果を無視して嘘をついた大石の尻拭いをすることになる。広報担当理事と広報室長は同席したが、大石は出席しなかった。

大石による記者会見から40分後の午後8時50分、3回目の会見が始まった。本社が2時ビデオの存在を知ったのはいつか。この問いに西村が答える。

「2時ビデオが本社にあることが分かったのは1月10日です。 この日に職員の机の中から出てきました」

2時ビデオの存在を本社が知った日について、2回目の会見で、大石は「昨日の夕方だ」と答えている。西村は大石の発言を訂正することはせず、辻褄を合わせた。

この3回目の記者会見から数時間後の1月13日未明、東京都中央区内のホテルの駐車場で西村の遺体が発見された。

警察は「飛び降り自殺」と断定した。西村が宿泊していたホテル8階の部屋に遺書があったからだ。

「え、これだけ? 」

西村の妻、トシ子への遺書が動燃のロゴが入った用紙に書かれていた。書いた時間も記されていて、「午前3時40分」とある。

西村トシ子へ

色々苦労をかけました。

何にもしてあげられなかったと思いますが、最後の最後に子供達をよろしくお願いしお別れとします。

人間、幾度も失敗はするが、それが許されない状況もあります。子供達にくれぐれも軽率な言動をとらぬ様話しておいて下さい。

動燃の仲間には、大変お世話になったし、感謝しているところです。

唯一、マスコミの異常さには驚きを通り越し、怒りを感ずる次第です。自分達がどれ程の者か、自省をすることも必要なのではないかと思う次第です。 

元気で。熊本のご両親には余りショックを与えない様願います。

以上

え、これだけ? トシ子は呆気に取られた。自分には何の相談もないまま、「子供達をよろしくお願いしお別れとします」とはどういうことなのか。怒りさえ覚えた。

大体、これは本当に夫が書いた遺書なのか。我が子のことを思っているなら死に際に「子供達」とまとめて書くのではなく、それぞれの名前を書くはずだ。次男は成生が亡くなった翌日に成人式を控えていた。我が子の門出を前にこの世を去ることに対して、もっと言うことはないのか。長男に関してもそうだ。直前の正月では結婚を考えている相手がいることを家族に報告していた。

自分とのことも「色々苦労をかけました」と一言で済ませている。夫婦とはそんなものじゃないだろう。許されない失敗をしたとか、マスコミの異常さに怒りを覚えたとか、そんなことを言う前に我が子や妻に遺す言葉があるはずだ。どう考えても夫が自分の意思で書いた遺書とは思えない。

梶山官房長官も参列した葬儀

東京都千代田区永田町にある国会議事堂(2023年5月6日、撮影=渡辺周)

亡くなって2日後の1996年1月15日に執り行われた成生の葬儀にも、トシ子は唖然とした。動燃トップである理事長の大石博はもちろん、科学技術庁長官の中川秀直、元科学技術庁長官の田中真紀子ら政治家や財界人が参列している。

一番の大物といえば梶山静六だ。1988年に国家公安委員長として北朝鮮による拉致問題を認めた後、通産大臣、法務大臣、自民党幹事長を歴任し、この時は橋本龍太郎内閣で官房長官を務めていた。

成生は総務部の次長でしかなかった。しかも「自殺」だ。政財界を挙げての葬儀がなぜ必要なのか。動燃の職員たちは、呆気に取られるトシ子をそっちのけで社葬ともいえるこの葬儀を手配した。

トシ子は直感的に夫が動燃と、その背後にある政府の犠牲になったのだと思った。だからこそ、妻である自分から異議を唱えられることを必死に防ごうとしている。

夫は、動燃が抱える闇を一身に背負わされた。「お前が死ねば動燃に対するバッシングは収まり、組織は生き残ることができる」。そうやって追い込まれたのだーー。

トシ子がそう思うのには、自分への不自然な遺書や、政財界挙げての葬儀以外にも、さらに理由があった。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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