消えた核科学者

失踪3年前に金日成が出した「秘密教示」(38)

2024年02月21日11時12分 渡辺周

動燃でプルトニウム製造の現場責任者だった竹村達也は、1972年に失踪した。

プルトニウムは核兵器に転用できる。竹村はプルトニウムを扱う技術を持つ。警察が、北朝鮮による拉致を疑うのはそのためだ。

だが拉致は犯罪だ。発覚すれば国際問題に発展する。そのリスクを冒してまで竹村を拉致する動機が、北朝鮮にあるだろうか。

竹村を拉致する動機を調べるため私は韓国に飛んだ。ソウルの国会図書館で発見したのは、金日成の内心が吐露されている文書だった。

韓国・ソウルにある国会図書館(2023年8月2日、撮影=渡辺周)

「米国本土を攻撃できる核兵器とミサイルを」

発見した文書は、金日成による党や政府、軍の幹部への非公式の指示を記録した「秘密教示」だ。

秘密教示は、北朝鮮の幹部工作員だった故・金用珪(キム・ヨンギュ)が1970年代に脱北後、関係資料を整理してまとめた。彼は韓国の「北韓研究所常任研究委員」として、2001年10月号の「北韓」に秘密教示の中身を公表していた。

1968年11月の秘密教示が、金日成の核兵器所有への意欲を示している。竹村が茨城県東海村にある動燃の独身寮から失踪したのは、1972年3月。秘密教示から3年4か月後のことだ。

この秘密教示で金日成は、朝鮮戦争で戦った米国と再び戦争をする覚悟を示している。

「南朝鮮から米国の奴らを追い出さなければならないが、このままでは奴らは絶対に撤退しない。だからわれわれは、いつかは米国の奴らともう一度必ず戦わなければならないという覚悟を持ち、戦争準備を急がなければならない」

ではどういう戦略を取ればいいのか。

「戦争準備を整える上で何よりも急務なのは、米国本土を攻撃することができる手段を持つことだ。歴史上、世界には数百、数十の大小の戦争があったが、米国が介入しなかった戦争はなく、そのすべてが他地域で起こった戦争だった。米国本土にはこれまで1発の砲弾も落ちたことがない。そんな米国が、砲弾の洗礼を受けるとどうなるか。米国国内では反戦運動が起こるだろう。第三世界諸国の反米共同行動が加われば、米国の奴らは南朝鮮を手放さざるを得なくなる」

そして金日成は、米国本土を攻撃するための具体的な手段を指示する。

「だから同志たちは1日も早く、核兵器と長距離ミサイルを自力生産できるように積極的に開発すべきである」

核兵器と、米国本土に届くミサイルの開発。北朝鮮は今、この2枚のカードを見せつけて米国をはじめ国際社会を翻弄している。この時の金日成の秘密教示を忠実に実行したことになる。

金日成のトラウマ

金日成が核兵器の開発に執着したのは、朝鮮戦争で米国に植え付けられた恐怖がトラウマになっていたからだ。

米国は広島と長崎に原爆を投下してその威力を見せつけた上に、朝鮮戦争では原爆を投下する寸前まで行った。1951年の9月と10月には、B29が沖縄を飛び立ち、北朝鮮の上空で原爆投下の詳細なシミュレーションを実施した。広島に原爆を投下する前に行ったものと同様の訓練だった。

しかし当時の北朝鮮に核兵器を開発する能力はない。当初にとった「表」の戦略は、ソ連から原子力技術を学ぶことだった。

北朝鮮は1956年、まず物理学者たちをソ連の研究所に原子力を学ばされるために派遣した。1959年にはソ連との間で、原子力研究開発協定を締結し、原子力開発を本格化させていった。

1964年には寧辺に原子力研究施設を設置した。以後、寧辺が北朝鮮の核開発の中心地となる。1965年には寧辺にソ連が研究用の小型原子炉を提供し、北朝鮮で初の原子炉ができた。

ただし、ソ連にしてみれば北朝鮮が核兵器を持つことは認められない。共産圏のリーダーとして優位な立場を維持するためには、自国だけが核兵器を持っているという状況が重要なのだ。中国が1964年に核実験を行うまでは、共産圏で核兵器を持っていたのはソ連だけだった。北朝鮮に原子力技術を供与するにしても、核燃料からプルトニウムを取り出す再処理技術など、核兵器の製造につながることは教えるわけにはいかない。あくまでも、電力を賄うための原子力発電に関する技術協力だった。

では北朝鮮はどうするのか。核開発をソ連だけに頼っていたわけではなかった。東欧諸国を中心に共産圏から科学技術を取り入れたほか、もう一つのルートがあった。日本である。

植民地時代に日本で学んだ朝鮮人科学者たち

日本の大学で学んだ朝鮮人科学者の中には、日本の植民地支配から解放された後、北朝鮮に渡った人たちがいる。

その代表格が李升基(リ・スンギ)である。

李は1905年生まれ。日本に留学して旧制松山高校を卒業後、京都大学で化学を学んだ。1939年には合成繊維のビニロンを、京大での共同研究で開発した。

太平洋戦争の終結後、韓国に渡る。ソウル大学の工学部長を務めた。

北朝鮮に移住したのは、朝鮮戦争中の1950年だ。李が自ら移住したのか、拉致されたのかは見方が分かれる。ただその後の李は、北朝鮮国内で科学者として枢要な位置を占めていく。ビニロンを北朝鮮の衣料に役立てたことで、英雄視された。1996年に90歳で亡くなった時、朝鮮労働党中央委員会は、李を国葬にすると発表した。

重要なのは、李が核科学者としての顔も持っていたことだ。1967年には寧辺原子力研究所の初代所長に就いた。寧辺の核研究施設で1980年代に勤務していた金大虎(キム・デホ)は、1994年に脱北。2006年に韓国の聯合ニュースのインタビューに答え、李を中心に北朝鮮が核開発を始めたと証言している。

植民地時代に東京大学で物理学を学んだ都相禄(ト・サンロク)も、ソウル大学で教鞭をとった後、北朝鮮に入った。北朝鮮では金日成総合大学の初代物理学部長に就任。核分離加速実験装置を開発するなど核技術の向上に貢献した。

脱北技師「ミサイル部品の90%は日本から」

日本からミサイルに使う部品が持ち込まれたという証言もある。

2003年5月20日、米上院・政府活動委員会の小委員会は、脱北したミサイル技師を招いて公聴会を開く。その技師は、北朝鮮の軍事企業で弾道ミサイルの開発を担っていた。1989年にはイランでのミサイル発射実験も経験した。身の安全を確保するため、頭から袋をかぶらせ技師の顔が分からないようにして公聴会は開かれた。議事堂警察も厳重な警備態勢で臨んだ。

上院議員のピーター・フィッツジェラルドが技師に質問した。当時のやり取りが議事録として残っている。

「あなたは私のスタッフに、北朝鮮のミサイル産業は完全に外国からの輸入に頼っていると言いましたね。そのことについて、もっと詳しく説明できますか」

技師が答える。

「私は北朝鮮のミサイル誘導システムの専門家として、9年間働きました。その経験から断言できるのは、部品の90%は日本から来ていたということです。これらは日本国内にある朝鮮総連を通じ、船で3か月ごとに持ち込まれます。急いでいる場合には、私たち自身で港まで取りにいくことがありました」

フィッツジェラルドがさらに尋ねる。

「そうした部品は密輸されたものですか。それとも北朝鮮が購入したものですか」

「非公式なものであることは確かです。部品を運ぶのに使われたのはマンギョンボン(万景峰)号という船です。これは旅客船で貨物船ではないので、密輸ということになります」

これに対して、日本の朝鮮総連は次のようなコメントを発表した。

「完全なねつ造で、朝鮮総連はそのようなことに一切関わったことはない。マンギョンボン号は日本の法律に基づいて合法的に輸出物資や人道支援物資を運んでいることは周知の事実だ。日本の関連当局もよく承知している。対北朝鮮封じ込め政策を強化し、総連を陥れるための露骨な政治的欺瞞劇である」

金正日と記念写真を撮った人物とは

北朝鮮の核兵器とミサイルの開発を探る上で、さらに重要なことがある。竹村達也の他にも、日本人の核技術者たちが失踪しているという事実だ。

2009年、北朝鮮はテポドン2号の改良型とみられるミサイルを発射した。その直後、総書記の金正日は科学者たちと記念写真を撮る。

写真の中には、1982年に失踪した日本人と似た人物がいた。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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