消えた核科学者

ロボットアームを研究した23歳の失踪(39)

2024年02月28日18時31分 渡辺周

北朝鮮の金日成は1968年11月、核兵器とミサイルの開発を命じた。朝鮮労働党や軍の幹部への「秘密教示」にそのことが記されていた。

だが当時の北朝鮮に開発のための知識も技術もない。頼みの綱のソ連は原子力発電に協力しても、プルトニウムの製造など核兵器につながることは教えてくれない。

そこで頼ったのは日本からのルートだ。植民地時代に日本で学んだ朝鮮人科学者たちが、北朝鮮の核開発に携わった。人材だけではなく、ミサイル部品についても日本からもたらされたという情報もある。脱北したミサイル技師が2003年、「部品の90%が日本から持ち込まれた」と米国議会で証言した。

しかし、日本ルートとして考えられるのはそれだけだろうか。動燃でプルトニウム製造の現場責任者だった竹村達也の拉致も含まれるのではないか。竹村が失踪したのは、金日成が秘密教示を出した3年4カ月後のことである。

竹村だけではない。1982年、横浜市からは23歳の若者が失踪した。原子炉などで使うロボットアームについて大学で学んだ直後のことだ。27年後の2009年には、彼とよく似た人物が、金正日総書記とミサイル技術者たちとの集合写真に写っていた。

2009年4月5日の弾道ミサイル発射後に、金正日総書記と記念撮影をする技術者ら(朝鮮中央通信)。マルで囲った人物が河嶋功一さんと似た人物

1982年に失踪する前の河嶋功一さん

弾道ミサイル発射後に

2009年4月5日午前11時30分ごろ、北朝鮮は弾道ミサイルを発射した。切り離された1段目のロケットは、秋田県の西約320キロの日本海上に落下。2段目のロケットは東北の上空を横切って太平洋沖に消えた。日本政府は、太平洋沖2100キロまでレーダーで追尾したものの、補足できる範囲を越えた。テポドン2号の改良型とみられる弾道ミサイルは、米国まで届くミサイルの開発を狙うものだった。日本を射程に入れる弾道ミサイルは、すでに北朝鮮は持っていた。

首相の麻生太郎は「極めて挑発的な行為で断じて看過できない」と記者団に語り、米国大統領のバラク・オバマは「長距離ミサイルに転用できるロケットの発射実験を実施して、再びルールを破った。今こそ国際的な強い対応を取るべきだ」と訪問先のプラハでの演説で言った。

ミサイルの発射後、朝鮮中央通信が1枚の写真を配信し、朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』に掲載された。総書記の金正日が、技術者らと写った集合写真だ。

その中に、1982年に23歳で失踪した日本人、河嶋功一とよく似た人物がいた。

中身が破られて表紙だけのノート 

河嶋功一が失踪した経緯やその後の警察の捜査については、「河嶋功一君を探す会」の牧野良三が記録を残している。「探す会」は、功一が卒業した静岡県浜松市内の高校の同窓生らが組織した会だ。河嶋の家族の証言や、警察が家族や探す会に捜査進捗を報告した内容などを記録してきた。

これらの記録と、功一の妹智津子らへの取材で、失踪前後の詳細が判明した。

功一は関東学院大学に1年浪人して入学し、工学部機械工学科計測制御研究室で「ロボットアーム」について研究した。ロボットアームは原子炉の燃料棒を出し入れする際に使われる。原発には必要不可欠な技術だ。

大学の同級生たちによると、功一はおとなしい性格で無口だった。ただ友人たちと酒を飲んで歴史の話をしている時に、突然「そこは違う」と熱弁をふるったことがあった。なぜそんなに歴史に詳しいのかと尋ねたら「歴史が好きだから」と功一は答えたという。歴史上の人物などについて詳しく書いたノートがあったが、失踪後、そのノートは中身が全て破られ、表紙だけになった状態で残されていた。

功一は1982年3月20日、関東学院大学を卒業した。卒業後は実家がある浜松市に戻ることを決めていて、市内の自動車部品メーカーに就職することになっていた。内定が出た際に功一は「入社後すぐにアメリカに2〜3年行くことになる」と言っていた。功一は英語を話せた。

浜松市内の自動車部品メーカー入社式は3月22日の月曜日。横浜市金沢区の下宿で暮らしていた功一は、前日の3月21日の日曜日を引っ越しする日に決めた。引っ越し作業のため、父の孝浩と母の愛子に浜松から手伝いに来てもらうよう頼んだ。

雨で新幹線に変更

河嶋功一の両親、孝浩と愛子は引越し前日の20日の午後11時に浜松を出発する。車は日産サニーのライトバン。下宿の荷物を積みこんで、功一と3人で浜松に帰るつもりだった。

翌朝6時に両親は小田原に到達。少し仮眠を取ってから横浜市金沢区の功一の下宿へと向かい、午前8時に着いた。功一は不在だったが、しばらくして下宿に戻って来て「飯を食いに行って来た」と告げた。

下宿の大家にあいさつをした後、ライトバンに荷物を積みこんでいった。冷蔵庫、テレビ、タンス、コタツ、製図用の工具、犬好きの功一が収集した本・・・。どんどんスペースが埋まっていく。帰る際に功一が乗り込むスペースがなくなってしまうので、布団はライトバンの屋根の上に固定して運ぶことにした。

ところが雨が降ってきた。ライトバンの屋根に乗せて運ぶ予定だった布団を、車内に積み込むことになり、功一が乗るスペースがなくなった。功一だけは電車と新幹線で浜松に向かうことになった。父の孝浩が交通費として1万円を渡そうとすると、功一は「それくらいはあるから」と遠慮した。孝浩は「まあ土産でもこれで買ってくれ」と5000円を渡した。先に浜松に着く功一は、実家で飼っている5匹の犬を散歩させておくと両親に告げた。

功一は午前9時30分ごろ、地元の老舗百貨店のマークが入った折りたたみの傘をさして、ほとんど手ぶらで最寄り駅に向かった。クリーム色のジャージのタートルネック、海老茶色のジャンパー、濃いベージュのズボン、白い紐のスニーカーというラフな格好だ。

下宿から30メートルほど先の角を右に曲がる際、父の孝浩と母の愛子に向かって手を振りながら言った。

「気をつけて帰って来てな」

功一と別れた後、母の愛子は改めて功一の部屋を念入りに掃除した。周囲の草抜きもして全ての作業が終わったのは午前11時半ごろ。下宿の大家に最後にあいさつに行くとこう言われた。

「大学生に部屋を貸すと、夜中に大勢で集まって飲んだり、麻雀をしたりして騒ぐ子が多いけど、お宅のお子さんはそういうことが全くなかった」

功一の荷物をライトバンに積んで浜松に向かう途中、両親は渋滞に巻き込まれた。夕方5時に小田原付近から、到着が遅れることを伝えるため、浜松の自宅に電話を入れた。電話にでたのは、妹の智津子だった。「まだお兄ちゃんは帰っていない」と言われた。

浜松には夜の10時ごろに着いた。しかし、功一はまだ帰っていなかった。

功一が横浜の下宿を出発したのは朝の9時半だ。どこかに寄ったにしても、翌日に入社式を控えていることを考えるとおかしい。しかも功一は大の犬好きで、飼い犬も可愛がっていた。妹の智津子は当時のことを「あれだけ飼い犬のことを可愛がっていたのに、両親から引き受けた散歩をほったらかしにするのは不自然だと思った」と話す。

両親は夜中の1時半ごろまで待ったが、いてもたってもいられない。再び車で横浜の下宿に向かった。午前4時ごろ小田原で仮眠を取ってから、8時ごろに下宿に着いた。大家に尋ねてみたが、功一は下宿には来ていないという。神奈川県警金沢警察署に捜索願を出しにいったが、功一は成人しているため、事件性がない限りはどうにもできないと動きが鈍かった。

同級生にかかってきた電話

事件が大きく動いたのは、それから20年以上が経った2004年のことだ。重要な情報がもたらされた。

功一が卒業した高校の卒業生たちで結成した「河嶋功一君を探す会」が2月、浜松市内で拉致問題について考える集会を開いた。集会の模様がテレビで放映されたところ、功一の中学の同級生がそれを見ていた。探す会に次のように証言した。

1981年か1982年ごろ、中学の同窓会の案内のハガキを河嶋功一宛に送った。後日、功一を名乗る人物から自宅に電話があった。男性は不在で母親が応対したが、特に変わった様子はなかった。

数日後、再び電話があった。今度は自分が電話に出た。夕方から夜にかけてで、天気が悪いか、風の強い日だった。

卒業後、功一とは一度も会っていない。それなのに電話をしてくるということは、てっきり同窓会の出欠を知らせてきたのかと思った。電話は公衆電話からのようで、硬貨を入れる音がする。電車の音やアナウンスの声がして、大きな駅からかけてきているようだった。

特にあいさつもなく、功一はいきなり言った。

「今、横浜にいる。自分のため、両親のため北朝鮮に行きたい」

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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