消えた核科学者

失踪2日後に区役所に現れた人物(40)

2024年03月06日12時25分 渡辺周

大学でロボットアームを研究していた河嶋功一が1982年3月21日、横浜市内から失踪した。ロボットアームは原子炉の燃料棒を出し入れする際に使われる。当時23歳で関東学院大学を卒業したばかり。浜松市内の自動車部品メーカーに就職が決まっており、翌日には入社式を控えていた。

それから27年後の2009年、功一とよく似た人物が、北朝鮮の金正日総書記とミサイル技術者たちとの集合写真に写っていた。

功一は北朝鮮にいるのか。

失踪前後、功一の中学時代の同級生の男性のもとに、河嶋功一を名乗る人物から電話があった。その人物は「今、横浜にいる。自分のため、両親のため北朝鮮に行きたい」と言ったという。

さらに功一の失踪をめぐって、神奈川県警が重要な情報を掴む。

警察庁のウエブサイト「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」に掲載されている河嶋功一さん

「は〜? 北朝鮮? 」

電話を受けた中学の同級生の男性は2004年、「河嶋功一君を探す会」に、その情報を寄せた。探す会は、功一の高校の同窓生たちが結成した会だ。

男性の証言は次の通りだ。

1981年か1982年ごろ、中学の同窓会の案内のハガキを河嶋功一宛に送った。後日、功一を名乗る人物から自宅に電話があった。男性は不在で母親が応対したが、特に変わった様子はなかったという。

数日後、再び電話があった。今度は自分が電話に出た。夕方から夜にかけてで、天気が悪いか、風の強い日だったように覚えている。

卒業後、功一とは一度も会っていない。それなのに電話をしてくるということは、てっきり同窓会の出欠を知らせてきたのかと思った。電話は公衆電話からのようで、硬貨を入れる音がする。電車の音やアナウンスの声がして、大きな駅からかけてきているようだった。

特にあいさつもなく、「功一」を名乗る男はいきなり言った。

「今、横浜にいる。自分のため、両親のため北朝鮮に行きたい」

「は〜? 北朝鮮? 」

男性はびっくりした。そのため、この時のやり取りをよく覚えている。

男性が「何をしに行くのか」と聞いたところ、研究か、研修かそのようなことを言っていた。興奮しているようだったが、脅されている感じはなかった。詳しいことは思い出せない。

2、3分くらいして急に話が途切れた。側にいる誰かに受話器を渡したか、これ以上話をしないよう止められたような感じだった。2、30秒から1分くらい応答がなかった。その間も、公衆電話に硬貨を投入する音は聞こえる。

同級生の男性は「とにかく身体にだけは気をつけてね」と告げた。しかし、相手は何も言わずに電話を切った。

元警察庁外事課長「河嶋さんのことも十分承知」

同級生の証言を得て、家族は静岡県警に告発状を出すことにした。「探す会」と、北朝鮮による拉致問題に取り組む民間団体「特定失踪者問題調査会」が協力した。罪状は刑法第226条の「国外移送目的略取誘拐」、被告発人は不詳。2004年9月28日付けで提出し、静岡県警は受理した。

電話の主は河嶋功一なのか。実家ではなく、親しいわけでもない中学の同級生に電話をしてきた理由は何か。告発状では、次のように推測した。

「こうした不自然な電話や手紙などが失踪者の関係者の元に送られてくる例は多い。これが本人からのものであれば、あまりに親しい関係者だと差し障りがあることを恐れ、別段親しいほどの関係でないところに、自分の去就を託したものだと思われる。本人からでないとすると、拉致した人物が、本人が自分の意思で北朝鮮に渡ったということを後で証明するために偽装工作をしたと考えられる」

功一の母・愛子と、妹・智津子らは、この年の12月に静岡県警本部長の高石和夫と面会した。高石は報道各社を退出させた上でこう言った。

「私は拉致事件の捜査に力を入れてきました。河嶋さんのことも十分承知しています」

高石は警察庁に入庁して以来、外国のスパイなどを捜査する外事畑を歩んできた。2002年に拉致被害者5人が帰国した際は、警察庁の外事課長だった。

引越し当日に会いたがっていた人

河嶋功一の中学の同級生が感じ取ったように、功一を名乗った電話がかかってきた際、そばにもう一人の別人がいたのか。誰かが功一の失踪に関わっていたのか。その点で、功一の両親には思い当たる節があった。

横浜の下宿から、浜松の実家に引っ越す時のことだ。両親は車で、功一は新幹線でそれぞれ浜松まで行くことになった際に功一が言った。

「すぐに出発しないといけないかな。会いたい人がいる」

だが功一は翌日に、浜松での入社式を控えている。父の孝浩が「入社式が終わってからまた会いに来ればいい」と告げると、功一は「わかった、先に浜松に戻って犬の散歩をしておく」と応じた。

功一は誰に会いたがっていたのだろうか。あの時はまさか失踪すると両親は思っていなかったので、気にも留めなかった。

神奈川県警外事課の見立て

警察による捜査で判明した不審な出来事もある。

功一は在学中も引っ越しをしている。横浜市金沢区の下宿に住んでいる間、その前の住所から住民票を移していなかった。

ところがその住民票が、失踪から2日後の3月23日に、引き払ったばかりの功一の横浜市金沢区の下宿の住所に移されていたのである。

功一が住民票を移すのだったら、引っ越し先の浜松に移さないとおかしい。すでに引き払った下宿に移すというのは非常に不自然だ。

この不自然な住民票の移動に、神奈川県警の外事課は大きな関心を寄せた。一体誰が何の目的で住民票を移したのか。横浜市金沢区役所の当時の戸籍係24人のうち、すでに亡くなった人らを除いて21人に聴取した。

功一の住民票が移されたのは、1982年3月23日。その時期は新年度を控えた引っ越しが多い。その上、金沢区内に団地ができたばかりで1日に200〜300人が申請窓口を訪れた。誰が功一の住民票の手続きをしに来たのかを覚えている人はいなかった。

ただ、ヒントはあった。住民票の手続きでは、下宿の名前まで書く必要はない。しかし申請書類には「○○荘」というところまで書かれていた。その下宿は「○○荘」という看板や表示がない。外見からは名前が分からない。下宿の名前を知っているのは、住民や大家といった当事者か、近隣の住民くらいだろう。

功一が浜松市内の就職予定先に郵送した書類の住所の表記も調べてみた。すると、金沢区役所に提出した住民票の申請書類と同じように「○○荘」と書かれていた。

これらのことから、神奈川県警外事課は3月23日に金沢区役所に手続きにやってきたのは、功一本人だと推察した。

そうすると功一は、3月21日の引越しの際に両親に対して先に浜松に帰っていると告げながら、2日後に下宿がある金沢区に現れたことになる。

一体、何のために功一は金沢区役所に現れたのか。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

拉致問題の真相を追求する取材費のサポートをお願いいたします。

 

北朝鮮による拉致問題は、被害者やその可能性がある家族の高齢化が進んでいるにもかかわらず、一向に進展がありません。事実を掘り起こす探査報道で貢献したいと思います。

 

Tansaは、企業や権力から独立した報道機関です。企業からの広告収入は一切受け取っていません。また、経済状況にかかわらず誰もが探査報道にアクセスできるよう、読者からの購読料も取っていません。

 

サポートはこちらから。

消えた核科学者一覧へ