消えた核科学者

原発の点検作業員も消えていた(42)

2024年03月20日11時45分 渡辺周

1972年に失踪した竹村達也は、動燃でプルトニウム製造係長を務めていた。1982年に失踪した河嶋功一は、ロボットアームの研究をしていた。ロボットアームは、原発の燃料棒を出し入れするのに不可欠である。

二人とも、核兵器とミサイルの開発に役立つ人材だ。警察は、北朝鮮により拉致された疑いで捜査している。

だが核関連の仕事に就いていた日本人は、他にも失踪している。河嶋失踪の翌年、1983年のことだ。

原発集中地域から

日本にある19の原子力発電所(計画・廃止を含む)のうち、4つは福井県にある。敦賀原発(日本原子力発電)、大飯原発(関西電力)、高浜原発(関西電力)、美浜原発(関西電力)だ。いずれも日本海側に立地する。さらに旧動燃の高速増殖炉「もんじゅ」も福井県にある。

1983年4月3日、「東京動力建設」の社員、濱端俊和(当時23歳)は福井県敦賀市内にある社員寮に到着した。原発の点検作業を担うためだ。3月末に敦賀原発の定期点検を終えて、4月からは隣町の美浜原発の点検に当たることになっていた。東京動力建設の本社は横浜市にある。必要な用具を同僚と取りに行き、敦賀市内の社員寮に戻ってきたのだ。

1週間後の4月10日、日曜日。俊和は午後4時ごろに同僚をパチンコに誘った。同僚は断った。俊和はひとりでタクシーを呼んで社員寮を出る。寮は現場の作業に従事する社員のために建てられたもので、プレハブの2階建て。周囲にはパチンコ店はもちろん、飲食店もない。付近にはバスも走っていない。寮の社員たちが街に出るときはタクシーを呼んでいた。

だがその日、俊和は寮に帰ってこなかった。翌日もその翌日も帰ってこない。俊和は独身だ。会社の上司は沖縄の実家に行っていないかと電話をした。だが帰って来ていないし、何の連絡もないという。上司は俊和のことを知っていそうな人物に片っ端から連絡したが、消息は分からなかった。

失踪から5日後の4月15日、俊和の上司は福井県警敦賀署に行方不明の捜査依頼を届け出た。

免許証と通帳を置いたまま

警察庁のウエブサイト「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」に掲載されている濱端俊和さん

失踪から10日あまり経った4月21日、濱端俊和の上司たちは敦賀署に赴く。発見された変死体が、俊和かどうかの照合結果を聞くためだ。

鑑識担当者によると、遺体の人物の所持品はメガネ、たばこ、着衣、靴。だがどれもが俊和のものではなかった。身体の特徴も、俊和が身長155センチに対して遺体は165センチ。足のサイズは24.5センチに対して26センチ。歯は俊和が健康な歯であったのに対して全て入れ歯だった。俊和には顎の左にアザがあるが、変死体にはなかった。完全に別人である。

俊和が事件や事故、あるいは自殺で死亡したという可能性は低くなった。一体、何があったのか。

俊和が自らの意思で失踪していないことは明らかだった。衣類をはじめ社員寮に置いていた荷物が、そのままになっていたのだ。

さらに俊和は、免許証と銀行の通帳を持っていってなかった。どこで暮らすにせよ、免許証は自分の身分を証明するために必要だ。銀行口座は給料の受け取りで使っていたもので、失踪した4月10日時点では22万5169円の残額があった。もし自らの意思で失踪したならば、現金をあらかじめ引き出しておくだろう。その後も口座には4月12日と5月12日に給料が振り込まれている。だが手付かずだ。

俊和に変わった様子もなかった。俊和は沖縄出身で、弟の俊明はその年の正月に兄が帰省した時の一家団らんを覚えている。

「揚げ豆腐やもずく、グルクンの唐揚げといった沖縄の家庭料理を囲んで過ごしました。兄はオリオンビールを飲んでましたね」

当時高校生だった俊明にとって、俊和は優しい兄だった。政治に興味があるわけでもなく、穏やかで、車が好きだった。俊和が日産のバイオレットという乗用車を沖縄で買った時は、俊明を浦添海岸のドライブに連れていってくれた。

両親の手紙

沖縄にいる家族の心配は募った。失踪から1か月、父の清徳と母の光子は、俊和の会社に手紙を出した。息子の行方を探すよう手紙の中で要請している。

「行方不明になってからはや1か月になりますが、今日まで本人から沖縄の私達両親の元へ何の連絡もありませんので、心配しております」

「どうか私達の窮状をお察しくださいまして、お手配のほどをよろしくお願いいたします。沖縄の島国育ちで本土の都会へ捜しに行く術もなく、ただ自宅で連絡を待つしか能のない親ですから、貴社におすがりする外に道はないと存じます」

手紙では、今回の失踪に関する両親なりの見方も示している。

「今まで一緒に入社した同僚の連中の無断退職等もあり、息子もどこかに転職したのだと周囲の進言もあり、もしどこかへ転職したのなら5月の連休を利用して寮の荷物や自家用車を取りに行くものだと思いまして、連休明けまで待っておりましたが今日5月9日になっても寮に帰っていないようです。自分の衣服、免許証、給料、自家用車等を放ってまで他へ転職するでしょうか。ここが疑問に思います。もし辞めるなら私物を持って行くのが普通だと思います。そう考えて心配しているわけであります」

両親は訴える。

「無事でいてくれと祈って願っておりますが息子の人命の最悪事態ではないかと心配で仕事も手につかず、夜も寝られない毎日であります。どうか私達の心情を御察し下さいまして、何らかの手を打っていただきたくお願い申し上げる次第で御座います。全国民が購読する毎日新聞等に公告するとしますとどの位の費用が要るでしょうか。調べて御知らせ願えないでしょうか。また息子に社内預金等、積立金等があれば費用に当てたいと思いますのでその件も御知らせください」

しかし、両親の思いは届かなかった。俊和の失踪から13年後の1996年、父の清徳は息子との再会を果たせないまま他界した。母の光子は2021年に87歳で亡くなった。

光子は息子が失踪してから毎年、「ユタ」という沖縄の民俗信仰にもとづく霊能力者に会いに行っている。ユタの「俊和は生きている」という言葉に、希望をつないでいたという。

タクシーの行き先

濱端俊和の失踪で不審な点は、免許証や通帳を置いたままだったことだけではない。

俊和はパチンコに行くため社員寮をタクシーで出たはずだった。しかし俊和の上司たちがタクシー会社に確認したところ、タクシーの運転手は俊和をパチンコ店ではなく、敦賀駅前で降ろしたという。

駅に近いパチンコ店があって、駅前でタクシーを降りてから徒歩で向かったのではないか? 私は敦賀に行ってみた。駅を降りてパチンコ店を探したが付近にはない。

次に俊和が暮らしていた社員寮があった場所も訪ねた。寮はすでになくなっていた。だが、俊和の会社の出先や同業者の事務所はまだあった。

事務所の駐車場にいた男性に声をかけてみた。俊和が寮で暮らしていた時期に、男性の同僚たちもその寮で暮らしていたという。彼は当時の様子を覚えていた。

「あの当時、敦賀駅に行くまでの間にいくつかパチンコ屋があった。この辺からパチンコに行くなら、駅前まで行くことはないね。駅前にもパチンコ屋はあったけど、出玉が少なかった。わざわざあの店にパチンコに行くことはまずない。飲み屋なんかも駅前ではなく、駅に行くまでの街にあった。遊ぶのに駅まで出るという考え自体がなかった」

竹村達也の警察リストとの共通点

濱端俊和の失踪について、警察は「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」として捜査している。ウェブサイトでは顔写真を掲載し、福井県警公安課と沖縄県警外事課の電話番号とメールアドレスを記載。「濱端俊和さんに関する情報を御存知の方は、どんな小さなことでも結構ですから情報をお寄せ下さい」と呼びかけている。

しかし、本気で捜査する気があるのかは疑問だ。職業について「会社員」としか書いていないからだ。

原発の点検をする作業員だったことは重大な情報だ。だが伏せている。身体的特徴については「身長155㎝、体重50kg位、血液型A型 左顎下にアザあり 靴のサイズ24.5㎝」と詳細に記している。余計に不自然だ。

竹村達也の場合も、職業は「公務員」と書いてあるだけ。プルトニムを扱う科学者であったことはもちろん、動燃の職員だったことにも触れていない。

実際、弟の俊明は、事件を担当しているはずの福井県警から連絡をもらったことがない。敦賀署は俊和の失踪直後に身元不明遺体との照合をして別人と判断した。これが福井県警としては最初で最後の実質的な捜査ではないかという。

福井県警は拉致に対しての警戒が薄かったように見える。

福井県内では1978年、地村保志と濱本富貴恵が小浜市にある海沿いの公園から、北朝鮮の工作員に拉致されている。この時の工作員の一人が辛光洙(シン・ガンス)だ。辛は1980年には、宮崎県内から原敕晁も拉致した。

俊和が住んでいた社員寮から4キロ弱の二村海岸からは、1979年に北朝鮮の工作員が密入国している。埼玉県警が、スパイ事件の捜査過程で明らかにした。

工作員は二村海岸から入国後、新たな工作員候補の獲得や日本海沿岸の調査を行った。俊和が失踪したのは1983年。工作員が密入国した4年後のことである。

拉致の可能性がある失踪者の家族には、政府の拉致問題対策本部から折に触れて連絡がある。北朝鮮との貿易の禁止措置や、国連で取り上げられた北朝鮮の人権状況などを報告してくる。だが捜査が進展したという知らせはない。

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

拉致問題の真相を追求する取材費のサポートをお願いいたします。

 

北朝鮮による拉致問題は、被害者やその可能性がある家族の高齢化が進んでいるにもかかわらず、一向に進展がありません。事実を掘り起こす探査報道で貢献したいと思います。

 

Tansaは、企業や権力から独立した報道機関です。企業からの広告収入は一切受け取っていません。また、経済状況にかかわらず誰もが探査報道にアクセスできるよう、読者からの購読料も取っていません。

 

サポートはこちらから。

消えた核科学者一覧へ