消えた核科学者

衝突された船に付着した「青い塗料」(43)

2024年03月27日11時41分 渡辺周

プルトニウム燃料製造の第一人者だった竹村達也、ロボットアームの研究をした河嶋功一、原発の点検作業員だった濱端俊和ーー。

核兵器やミサイルの開発に役立つ人物が、1970年代から80年代にかけて日本国内で次々に失踪した。

それだけではない。1988年、精密機械の元エンジニアが海の上で姿を消した。

竹島沖で

1988年8月2日午後6時、当時36歳の矢倉富康は漁船「一世丸」(4.9トン)で鳥取県の境港を出た。島根県沖の美保関と隠岐の島の中間で漁をして、翌朝の6時に境港に戻る予定だった。

だが一向に戻ってこない。翌3日から5日にかけて仲間の漁船が延べ67隻で捜索したが、行方が分からなかった。

8月10日午前9時すぎ、海上保安部の巡視船が、島根県竹島沖の南南東25キロで矢倉の船が漂流しているのを発見した。

船に矢倉の姿はなかった。左舷前方には他の船と衝突した跡があり、エンジンは焼き付きいている。航行中に衝突し、エンジンをかけたまま矢倉が船から消えた。そのことを物語っていた。

世界を股にかけた技術者

矢倉は元々、エンジニアだった。米子市内に本社を置く日本精機で働いていた。米子市は境港に近い。日本精機が1985年に倒産したことから、境港を拠点にした漁師に転身した。独身だった。

日本精機は「マシニングセンター」と呼ばれる精密工作機械で国内トップメーカーだった。マシニングセンターとは、100分の2ミリの単位の精度で金属を加工できる機械だ。ミサイル製造には必要不可欠である。当時は共産圏への輸出が規制されていた。

矢倉は、そのマシニングセンターのプログラムミングから加工、組み立て、メンテナンスまで手がける腕利きのエンジニアで、アジアや中近東、米国や欧州にも技術指導で飛び回っていた。韓国にも半年単位で単身、出張した。

1998年8月31日、北朝鮮がテポドン1号を発射した。テポドンは日本上空を通過し、太平洋側の三陸沖に弾頭が落下した。日本精機のかつての同僚の間でこんな話が出回った。

「矢倉の失踪は、彼が持つ技術力を狙った北朝鮮による拉致ではないか」

福井新聞(2003年2月8日付)によると、矢倉の元同僚で後に米子市議を務めた吉岡知己が「北朝鮮でスクリューでも加工させられてるんちゃうかと話していた」と語っている。吉岡はこの記事の中で、矢倉の技術が「ミサイルなどの兵器製造に利用できる」ものだと証言している。

なぜ200キロ離れた海域で「一世丸」は発見されたか?

矢倉富康は当初、海に転落したと思われていた。矢倉の父・三夫の漁協への報告書には次のように書いてある。

「8月10日9時5分頃、海上保安部巡視船おきが竹島南18マイル付近で漂流していた一世丸を発見した。その時船主の矢倉富康は乗船していなかった」

「船体を調べると船首右舷(原文まま)に衝突の傷が有り、漁網は油圧巻き取機より投網前の自動操舵になっており、機関室はエンジンオイル循環ユニットのオイルかんが下ちて(原文まま)いたため、オイル切れによりクランクメタルが焼き付き停止したと思われ、船主は衝突時の衝撃を受け海中に転落したと思われる」

つまり、船に衝突された時に矢倉は海中に転落。一世丸は操舵する人が不在のまま自動運転が続き、やがてエンジンオイルが切れて停止したということだ。

しかし、矢倉は海中に転落したのではなく、拉致の可能性が高いことが、民間団体の特定失踪者問題調査会によって明らかになっていく。

この会が結成されたのは2003年1月。前年10月に帰国した拉致被害者5人の中に、日本政府が全く把握していなかった曽我ひとみがいたことが設立のきっかけになった。明らかになっている拉致被害者は、氷山の一角だと考えたのである。

調査会で矢倉の失踪を担当したのは、妹原仁だ。妹原は、米子市内から29歳で失踪した松本京子の調査も担った。日本政府はその後、松本京子を北朝鮮による拉致だと認定している。

2003年1月27日、妹原のもとに第8管区海上保安部から、矢倉の失踪事件の捜索状況を記したファクスが送られてきた。妹原が問い合わせていた。興味深いのは次の記述だった。

「一世丸を調査したところ、船体に青色塗料が付着し、また凹損や擦過痕も認められたことから、他船による衝突も考えられたため、境海上保安部では衝突相手船について関連情報の収集に努めましたが、何ら手がかりは得られませんでした」

妹原が注目したのは、青色塗料だ。日本の船ではこの青色塗料は使われていない。だから衝突した船の手がかりを得ようにも分からないのではないか。妹原が海保の担当者に聞くと、こう言った。

「北朝鮮の工作船の色とよく似ているんですよ。ぶつかって乗り込まれたらどうしようもない」

妹原が不審に思ったことはまだある。

矢倉の一世丸は、自動操舵になったままオイルパイプが破損し、エンジンが焼け付いていた。発見された島根県の竹島沖は、当初予定していた漁場から約200キロ離れている。

一体、矢倉の身に何が起きたのか。

その重要な手がかりは、1963年に起きた事件にある。

警察庁のウエブサイト「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」に掲載されている矢倉富康さん

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

拉致問題の真相を追求する取材費のサポートをお願いいたします。

 

北朝鮮による拉致問題は、被害者やその可能性がある家族の高齢化が進んでいるにもかかわらず、一向に進展がありません。事実を掘り起こす探査報道で貢献したいと思います。

 

Tansaは、企業や権力から独立した報道機関です。企業からの広告収入は一切受け取っていません。また、経済状況にかかわらず誰もが探査報道にアクセスできるよう、読者からの購読料も取っていません。

 

サポートはこちらから。

消えた核科学者一覧へ