消えた核科学者

暗転(45)

2024年04月10日8時10分 渡辺周

動燃の元プルトニウム製造係長、竹村達也の失踪に話を戻す。

竹村は動燃で順風満帆の仕事人生を送っていた。動燃から米国の国立アルゴンヌ研究所に留学し、世界最先端の核技術も学んだ。動燃のエリート技術者として期待されていた。

趣味や恋愛に走ることもなく、仕事に打ち込んだ。茨城県東海村で職場と独身寮の「箕輪寮」を往復する日々だった。当時の同僚や部下たちは、職場でも竹村が無駄話をしているのを聞いたことがない。

ところが竹村は1972年3月、動燃を退職しそのまま失踪する。

なぜ竹村は動燃を退職したのか。

「戦場みたいな雰囲気」

1969年、30代前半で竹村は動燃の最重要プロジェクトで、プルトニウム燃料を製造する現場責任者の役を担うことになった。フランスの高速増殖実験炉「ラプソディ」に、核燃料を納めるプロジェクトだ。

当時は世界各国が、高速増殖炉の開発を激しく競い合っていた。高速増殖炉とは、原子炉内でエネルギーを生み出し続ける原子炉のことだ。特にフランスが開発に熱心で、実験炉のラプソディを日本に先んじて開発していた。

動燃も高速増殖炉「もんじゅ」を、福井県敦賀市で稼働させることを目指していたが当時はまだ完成していなかった。動燃は自分たちが製造した核燃料をラプソディで試してみたかった。

動燃は日本政府が設立した。動燃の最重要プロジェクトは国策を背負う仕事だ。竹村をはじめ動燃の技術者たちは、ラプソディにプルトニウム燃料を納めるプロジェクトに没頭した。

ところが、動燃が納めた燃料は返品されてしまった。

燃料はプルトニウムとウランを混合したもので、それぞれの粒が均一になることが必要だった。だが動燃の燃料はプルトニウムの粒の方が大きく固まってしまい、その部分だけが熱を発する状態になってしまった。

竹村は現場責任者として、追い込まれることになる。失敗を挽回しようと、部下たちからアイデアを募ってそれを吟味するということを終日やった。土曜日でも働いた。竹村のいたプルトニウム燃料部に配属された元部下はいう。

「あの時は戦場みたいな雰囲気でしたね。竹村さんはフランスから返品されたことに責任を感じていて、話しかけられるような雰囲気じゃなかった。竹村さんの采配で燃料づくりをしたことも失敗したことも、みんな知っていましたから」

左遷

半年ほどで、燃料は作り直すことができた。1970年のことだ。動燃の記念誌「プルトニウム燃料開発十年の記録」はこの時のことを記している。

「ラプソディ燃料の製造は多くの困難に直面しその度にPu燃(プルトニウム燃料部)の総力を結集して解決に努力することにより、合格品を作れる技術を確立した」

しかしやっとラプソディに合格品の燃料を納めることができたのも束の間、竹村はプルトニウム燃料部を去り他部署に異動することになる。

技術部検査課試験係。

1972年に失踪した竹村が、動燃での最後の2年間を過ごした部署である。米国のアルゴンヌ研究所に留学するようなエリート科学者たちが集まるプルトニウム燃料部に比べれば、中枢からは外れた部署だ。しかもプルトニウム燃料部では「プルトニウム製造係長」という肩書きがあったが、検査課では何の役職もない。

この人事異動について、プルトニウム燃料部でのかつての仕事仲間は口を揃えた。

「ラプソディの件で責任を取らされての左遷だよ」

竹村は検査科試験係での業務に満足していたのだろうか。プルトニウム燃料部では、燃料を製造する側だったが今度は検査する係だ。しかもヒラの職員への降格である。

ヒントは、竹村の転職話にあった。

竹村達也さんの住んでいた独身寮から旧動燃への通勤路(2023年8月13日、撮影=渡辺周)

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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