消えた核科学者

「仕事一筋」からの変化(47)

2024年04月24日14時45分 渡辺周

動燃のプルトニウム製造係長として活躍していた竹村達也は、1969年に挫折する。フランスの高速増殖炉「ラプソディ」にプルトニウム燃料を納めるプロジェクトで失敗。プルトニウム燃料部から技術部検査課に異動させられた。それまでの係長の肩書きはない。降格人事だ。

1972年3月、竹村は動燃を退職する。

元の部署であるプルトニウム燃料部の同僚たちや、大阪大学の同窓生は、竹村が転職したと思っていた。転職先としては、京セラ、三菱原燃、旭化成の名が取り沙汰された。

ところが、竹村はどこにも転職していない。行方不明になった。

一体何があったのか。私は、竹村が動燃での最後を過ごした技術部のOBを探すことにした。

蔵書の学術書が水戸の古書店に

当初の取材では、プルトニウム燃料部での同僚たちから証言を得ていた。だが彼らは、技術部にいた人たちとは交流がなかった。プルトニウム燃料部は、米国やフランスへの留学経験者もいる「エリート」部署。技術部とは毛色が違うようだった。

私は動燃の職員名簿を入手した。1971年12月時点の名簿だから、竹村が退職する3か月前のものだ。

名簿を元に動燃関係者たちをあたった。茨城県東海村に住む技術部OBの自宅が分かった。竹村がいた検査課ではなく工務課の出身だが、同じ技術部なので何か手がかりがあるかもしれない。自宅で取材に応じてくれた。

――1972年、技術部の同僚が失踪した事件があったはずです。

「竹村かな。うん、知ってますよ、うん。失踪したはずだ」

――その時の経緯で覚えていることはありますか。

「経緯はわからないね。どこの大学か知らないけど、大学を卒業した研究員だよね。真面目な人だ。飲む、打つ、買うなんてことは一切する人じゃないし。誰かから恨まれることもない」

「それが急にいなくなっちゃった。自らいなくなったんだよね」

――自らいなくなった?

「竹村さんは独身で寮に住んでいたんだ。私は中卒で組合活動もしていて会社に差別されていたから、寮には入れなかったんだけど。身辺を全部整理して寮の部屋もきれいに引き払って。とにかく何も残さないで。彼は研究者だから学術書だとか持っていますよね。それが水戸市の古本屋で見つかったんだ。その本には竹村さんの名前が書いてあった。竹村さんと同じ寮に住んでいた職員から聞いたんだ」

「悩みごとがあったとか、そういう感じでもなかった。普通に明るく振る舞っていた人だから。もちろん実家の家族がいたでしょうから、捜索願いも警察に出したと思うんですけど、見つからなかったんでしょうね」

仲間とカーシェアリング

しかし、プルトニウム燃料部のOBは竹村が期末手当を受け取っていないと証言している。期末手当も受け取っていない人が、古本屋に蔵書を売って換金するだろうか。

解せない点はまだあった。

プルトニウム燃料部で竹村の部下だった科学者は、竹村が独身寮の駐車場にカローラを置いたまま失踪したと証言していた。その部下は車がカローラなのに、ナンバーが「3298」で「ミニクーパー」と読めることからよく覚えていたという。

蔵書を古本屋に売っておきながら、愛車は放置したままいなくなるのは矛盾している。しかも当時はまだ自家用車が贅沢品の時代だ。蔵書よりもはるかに高価だ。その点を技術部のOBに尋ねると、思いもよらない答えが返ってきた。

「その愛車っていうのは、気の合った職場のグループで共同出資して買った車なんだよね」

「今でいう『カーシェアリング』かな。当時はまだマイカーが高価で普及していなかった。一緒に乗る時もあれば、今日はオレに貸せやっていう感じで1人でドライブに行く時もある」

竹村がカーシェアリングをしていたのなら、他の仲間が引き続き使っていただけで、愛車を放置したわけではない。

しかし、竹村が職場の仲間とカーシェアリングをしていたというのは違和感がある。

それまでプルトニウム燃料部での部下や同僚、母校の天王寺高校や大阪大学の同級生に取材してきた。すべての人が竹村について、こう語った。

「竹村は友達付き合いが乏しかった」

カローラが置いてあったのは「箕輪寮」という動燃独身寮の駐車場だ。だが、寮でも竹村は人付き合いがほとんどなかった。麻雀や飲み会にも参加しなかったほどだ。

カーシェアリングをしていたとして、何のために車を使ったのだろうか。

箕輪寮から動燃までは道路を隔ててすぐで、通勤は徒歩で可能だ。動燃の広い敷地内を移動するために車を使っていたということもないだろう。複数人で車をシェアしていたからだ。

車を使うならば勤務が終わった後か、休日ということになるが、仕事一筋の竹村がドライブなどレジャーに時間を割くだろうか。

だが技術部のOBは、竹村とカーシェアリングをしていた仲間の1人の名前を具体的に挙げた。労働組合の委員長経験者で、コーラスが趣味。コーラスでは指揮者を務め社交的な人だったという。

――ではなぜ失踪したのでしょう?

「竹村さんがいなくなったのは、ちょうど中国が核実験をやるようになった時期で、中国の核開発の手伝いをしに行ったんじゃないかというような噂が、動燃の職員の中でたったことはあった。でも何の証拠もないことで」

――北朝鮮についてはどうか

「北朝鮮の噂は出てこなかったなあ~。その頃はまだ日本とも仲が良かったし。北朝鮮は『地上の天国』だと在日朝鮮人が帰国運動をしていたような時代でしたから。東海村にも在日朝鮮人が相当いた。自分の生まれた故郷に帰りたいけど、彼らは日本の国政にモノを言う権利を与えられていないわけだよね。だから私らは国会に陳情で何回も行ったことがある」

この技術部OBは、それ以上は竹村のことは知らなかった。同じ技術部でも工務課で課が違う。

私は竹村が失踪する直前の技術部の職員名簿のうち、竹村と同じ検査課に在籍していた職員の住所を割り出した。しかも彼が当時住んでいたのは、竹村と同じ箕輪寮だった。

その人物が住む仙台に向かった。

茨城県東海村の日本原子力研究開発機構(旧動燃)。竹村達也さんはここに出勤していた(撮影=渡辺周)

=つづく

(敬称略)

消えた核科学者は2020年6月に連載をいったん終了した後、取材を重ねた上で加筆・再構成し、2023年11月から再開しています。第25回「アトム会の不安―刑事が言った『北に持っていかれたな』」が再開分の初回です。

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