共同通信が、同社の記者だった石川陽一さん執筆の『いじめの聖域 キリスト教学校の闇に挑んだ両親の全記録』(文藝春秋)に関し、発売翌日に長崎新聞に謝罪していた。石川さんに事情を聴かず、謝りにいくという連絡すらしていなかった。Tansaが11月22日に報じた。
私も若手の頃、上司が謝罪に行った経験がある。
当時、災害で娘を亡くした母親を取材していた。母親が災害の犠牲者の慰霊碑に、亡くなった娘に宛てた手紙を置いていて、私が目を留めたのがきっかけだ。
母親は、亡くなった子の妹で小学生の娘とふたり暮らし。生活に困窮していた。ある時、現金数万円が入った財布を落としたと私は相談を受けた。役所や知り合いにお金を貸してほしいと頼んだが誰も貸してくれない、これでは娘にパンを買ってあげることもできないから生活費を貸してほしいといわれた。
本当に財布を落としたのかはわからない。だが困っていることは確かだ。もし娘に食事をさせることもできない状況だったらどうしようと不安になり、私は「お金を貸します」といった。
だが相手は取材対象だ。お金を貸すことで、私に合わせて証言をするようなことがあっては記事の信頼性が落ちる。悩んだ挙げ句、「やっぱり取材中はお金のやりとりはできません」と断った。彼女も「わかった」といった。
ところが、娘が私の携帯に電話をしてきた。「渡辺さんはなんで約束を守らないんですか。ママがとなりで泣いています。飼っているワンチャンを売らないといけません」。
しまった、と思った。娘の言葉の真偽はともかく、私は子どもを巻き込んでしまった。権力を持っている相手や、強面の相手からのクレームならば平気なのだが、意気消沈してしまった。
上司に報告したところ、「わかった。僕が謝りに行ってくるからここからは任せて。気にするな」。菓子折りを持って謝りに行き、事を収めてきてくれた。私は感謝するとともに、自分の無力を恥じた。
若手の教育係の先輩記者は、しょげている私にいった。
「記者は一瞬、取材相手に寄り添ってあげられるだけなんや」
上司は二種類だ。部下を責めて自分を守る人と、部下を守る人。前者は石川さんを長崎新聞に差し出した共同通信の幹部のような人たちだろう。そういう人たちに欠けているのは、上司であれ部下であれ、同じ目標に向かい職務を全うする仲間だという心持ちではないか。
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