小学2年生の時に、ザリガニたちを飼っていた。ペットを飼ったことがない私に、祖父が贈ってくれた。
中でも好きだったのは、「ザリケン強たろう」。命名の経緯は、クラスの文集で書いた。
「おっとっと」、「いてえなぁ」。ぼくは、ああいうふうにいってるんだなぁとそうぞうした。「あのザリガニ強いなぁ」と思うと、ぼくは、「ひらめいた。けんかが強いから、名前はザリケン強たろうにしよう」。ということで一ぴきめのザリガニの名前がきまりました。
だがザリケン強たろうたちは、無残な死に方をしてしまう。
夏休みのキャンプで、私が家をしばらく留守にすることがあった。その間のエサやりと、水槽の水の交換を母に頼んだ。
ところが、キャンプから帰宅すると強たろうたちは死んでいた。母が私の依頼を忘れていたのだ。水槽はベランダに置いてある。夏の日差しを浴びて水槽の水は蒸発。強たろうたちは干からびて、背中がパックリ割れていた。
号泣して母を責めた。泣き止まないので、母は困った。隣に住む私と仲良しの兄弟を呼んできた。彼らは野球盤を持ってきて「これで遊ぼう」と私の相手をしてくれた。気持ちはありがたいのだが、野球盤で私を徹底的に打ち負かす。また泣けてきた。
気持ちを落ち着けて、その兄弟とザリガニたちの墓を作ることにした。空き地に埋葬し、チーズ蒸しパンを買って供え物とした。
それから墓参りをするようになったのだが、供え物のパンがなくなるという事件が起きた。何者かに食べられてしまったのだ。さらに墓があった空き地には、次々と住宅が建つ。結局、十分な供養もしてあげられなかった。
あの時、私は母を責めた。だが母だって忙しい。忘れることもある。母が何でもしてくれると頼るのは、甘えというものだ。
自分が大切にしているものは、責任を持って自分で守る。自立心はあの時に芽生えた。
阿品台東小学校(広島県廿日市市)2年4組『なかよし』の「ザリケン強たろう」より
「エライ人」に期待しても
甘えが禁物だということは、社会人になっても折に触れて体感した。2014年には、そのことを痛感した。
2014年9月11日、朝日新聞は東京電力福島第一原発事故に関する「吉田調書報道」を取り消した。
朝日新聞は、政府事故調が福島第一原発の吉田昌郎所長を聴取した調書を入手。その内容をもとに、2014年5月20日に「所長命令に違反 原発撤退」という見出しで報じた。だが見出しが問題になった。当時の木村伊量社長は、取り消し理由を以下のように発表した。
「吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、『命令違反で撤退』という表現を使ったため、多くの東電社員の方々がその場から逃げ出したかのような印象を与える間違った記事になったと判断しました」
読者に与えた印象を理由に、記事を取り消すというのは前代未聞だ。取り消しは、ねつ造があった場合の措置だ。例えば朝日新聞は1989年、沖縄県西表島のサンゴが落書きで傷つけられたと報じたが、その記事を取り消した。朝日のカメラマンが自らサンゴを傷つけていた。
吉田調書報道取り消しの翌月、朝日新聞社内で役員たちによる説明会が開かれた。その2か月前に従軍慰安報道の検証を公表して以来、朝日へのバッシングは続いている。吉田調書報道での記事取り消しは、事態を一層悪化させた。朝日はどうなってしまうのか。会場の東京本社15階のレセプションルームには、約300人の社員たちが詰めかけた。
なぜ記事を取り消したのか。私は、新旧の編集担当役員、前ゼネラルマネジャー、前ゼネラルエディター、販売担当役員、社長室長の計6人にそれぞれ質問した。
どの幹部の回答も要領を得ない。再度6人全員に質問したが、それでも取り消し理由を説明できない。私は腹が立って言った。
「これだけエライ人が揃っていて、分からない、分からないと言われたら説明会を開く意味がない! 」
朝日新聞が逆風に晒されている中、社の上層部は保身を優先した。結局、そういうことだ。正体不明の世間の怒りを鎮めるため、記事の取り消しを「生贄」にしたのだ。こんな理不尽な話はない。
だが、かつては社内で風を切って歩いていた幹部たちはしょんぼりとしている。冷静になって考えると、この人たちに期待すること自体が甘えだということに思い至った。彼らがどんな肩書を持っていようと、職業人としての強さとは比例しない。
自分の理想を貫きたいならば、自分でやるしかない。1年半後に私は朝日新聞を退社した。
「報道の自由裁判」は他人事ではない
あれから10年。朝日新聞だけではなく、報道機関の自壊はさらに進んでいる。
昨日、元共同通信記者の石川陽一さんが同社を提訴した裁判を傍聴した。裁判の中身は中川七海が報じた。
「『事前抑制』に及んだ共同通信/表現の自由を守る弁護士「報道機関として恥ずべき行為」/なぜ今、この裁判が重要なのか」
共同通信は、懲戒処分をチラつかせて石川さんを黙らせようとした。このような行為を裁判所が認めれば、組織に所属する記者の言論の自由は脅かされる。他人事ではない。
しかし、この裁判の取材をしている大手メディアの記者はほとんどいない。私の知る限り、傍聴に来る朝日新聞の編集委員が一人いるだけだ。上司から取材するよう言われなかったとしても、一記者として気にならないのだろうか。
大組織に所属する記者が「最後は組織が守ってくれる」と心のどこかで思っているとしたら、それは甘えであり危険だと思う。
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