小倉優香の11月15日付のペンギンコラム「葛藤」、その気持ちはよくわかる。
私は大学1年生の時にアフリカのルワンダに行こうとしたことがある。当時のルワンダは、約80万人が民族対立で虐殺される内戦が起きていた。ある日私が六畳一間のアパートでテレビを見ていると、NGOが現地のボランティアを募集しており「大した授業もない大学で、のうのうと学生生活を送っている場合ではない」と申し込むことにした。
実家の母が号泣して反対した。
「まだ若いのに命を粗末にするな。力も技術もない学生のあんたが行って何ができると思っているのか。頼むからやめてくれ」
母の迫力に押され、私はルワンダ行きをやめた。あの迫力を押し返すだけの強い意思もなかったのだろう。自分のいい加減さに嫌気がさした。
新聞記者になった時は、母は特に反対しなかった。初任地の島根県ではほのぼのとした記事を書くことが多く、実家がある大阪でも読めるブロック版に島根の記事を書いた時は、母は切り抜きをしていた。小さな村の演劇場の記事に喜んでいたのを覚えている。
しかし、私が手掛ける取材は次第にハードなものになっていく。
朝日新聞阪神支局で記者が射殺された事件の時効後の取材は、警察の後ろ盾はない。当然、危険が増す。元警察庁長官の佐藤英彦さんからは取材中に「老婆心ながら言っておくが、よっぽど気をつけないとホシにズドンとやられるぞ」と諭された。
佐藤さんは、「殺意」について自身が経験した事件を挙げながら「はらわたが煮えくりかえって喉から飛び出るような怒り」と表現した。警察官もまた、命の危険と隣り合わせの職業だ。本当に「老婆心」から忠告してくれたのだろう。
私が1面トップで、国家プロジェクトである認知症臨床試験の不正をスクープした時のことだ。母がポツリと言った。「だんだん、怖いところ、怖いところに行ってるね」。息子が大きな記事を書いて母は喜ぶと思っていた。自分の思慮の浅さに気づいた。
Tansaの前身であるワセダクロニクルを立ち上げてからは、母は私の仕事のことを聞いてこない。「元気か」と健康を気遣うだけだ。母にしたら、まだ組織が大きい朝日新聞にいた方が心配は少ないだろう。なのに、ちっぽけなニューズルームで、電通から北朝鮮まで、様々な大きな相手が絡むテーマでそれまでより激しい探査報道をしている。「元気か」としか聞かない母の心中を察すると申し訳ないと思う。
しかし、それでもこの仕事を私はやめられない。不条理な目に遭った犠牲者が、取材経験を積むごとに脳裏に焼きついてしまっているからだ。
ジャーナリストの側が闘いから逃げて背を向けた時の、権力者たちの「してやったり」の顔も焼きついている。権力は自己防衛のためなら何でもするという古今東西の教訓を考えると、この仕事からおりることはできない。
ジャーナリスト保護委員会によると、今年はこれまでに世界で62人が殺害された。その多くは政治権力や汚職、組織犯罪を追及していたジャーナリストだ。
だが私たちジャーナリストは、この事態を「職務上仕方ないこと」で済ませてはいない。自分の命と仲間の命を守ることは最重要だからだ。そのための技術やツールを常に向上させ共有している。
Tansaが加盟する「探査ジャーナリズム世界ネットワーク」(Global Investigative Journalism Network)の大会では、身を守る技術を共有するセッションがある。私が参加したセッションでは、仲間が殺害されるまでの再現VTRをそのニューズルームの編集長が見せていた。私たちが同じ悲劇を繰り返さぬための重要点を、必死に説く姿には込み上げるものがあった。
ジャーナリストを、応援してほしい。
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